意味をあたえる

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やさしさについて_まとめ

定期的にやさしさとは何かについて考えていたが、ここ数年は考えなくなっていた、しかし先日ひさしぶりに「優しいね」みたいなことを言われ、しかもそれは否定的な文脈だったのでゆるやかにスイッチが入った。しかし流れる思考は同じで代わり映えがしない。当ブログでも何度か書いている。

1、やさしさと親切の違い

村上春樹のエッセイで(私は20代はほぼ村上一本だったので思考のベースになっている)人に親切にするのは容易だがやさしくするのは難しい、と書いてあって具体的に両者の線引きについては触れられてなかったので自前の根拠を用意せねばならなかった。私の結論は「ありがとう」が伴うかどうかであった。30(年齢です)を迎えるころから、人にありがとうと言ったり、言われたりするのがしんどくなった。ありがとう、には「どういたしまして」が伴うからである。それはちょうど野球の表裏のようなもので、表ばかり裏ばかりではゲームにならず例えば野球の下手なプロ野球選手というのはいるかもしれないが、野球のルールを把握していないプロ野球選手というのは存在しないように、つまり野球とは私たちで言うところの「社会」であり、社会に関わるためにはルールをおぼえなければならない。だから一回表の次に二回表が続くのは不味いのである。私は正直それがしんどい。しかしやさしさと呼ばれる行為は野球ではなく、言ってみれば完全なる個人の行為、もっと言えば秘密を伴う行為なので、表も裏もないのである。だからじゃんじゃんやろうがやるまいが関係ないのである。だから私は人には親切ではなくやさしさで接しようと思うが、それにはテクニックが必要で、それは現実的な言葉遣いとか振る舞いはもちろん、感情のコントロールといったものも含まれる。人にやさしいという評価を受けるのは、実は人との接し方に失敗した結果なのである。もちろん私は「やさしさを極めたい」とか思っていないので失敗しても落ち込まないが。私が目指すのは「ありがとうのない社会」である。

2、ぜんぜん関係ないが宮沢賢治の「雨にも負けず」というのがあり、雨とか風とか夏の暑さとかに負けず、つまりあらゆるものに打ち勝つという解釈で一部の人たちの座右の銘になっているが、しかし詩を読んでいくと「みんなに木偶の坊と呼ばれ」とあって、そういう何にでも勝ちたい星人の人たちが、木偶の坊と呼ばれても平静を保てるのか疑問だ。私は正直家でも会社でも誰かに「木偶の坊」と呼ばれたら頭に来るだろう。そして、その後なんてつまらない人間になってしまったんだ、と自己嫌悪に陥るだろう。他者の目からの卒業はいつ訪れるのか、と祈るような気持ちで空を見上げる。しかし現実の私は周りに気に入られようと必死なのだ。そんな風に育てた親を恨まずにはいられない。母はあるとき私に、
「あなたに諦めることを教えてしまい、それは申し訳ないことをした」
と謝った。昨日1歳の甥が来た。私は甥にはあまり興味がなかったが、それでも新しい言葉や新しい体の動きを彼に熱心に教えたのは、母の謝罪のせいなのかもしれない。ひょっとしたらやさしさとは、諦めの向こうにあるものなのかもしれない。