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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私がないの

幼い頃から人を笑わせたり驚かせたりすることが好きで、小学四年か五年のときの国語に絵だけの台詞のない四コママンガがあって、それは吹き出しが書かれているから何かしゃべる用意はあるのだが、空白になっている。そこにオリジナルの台詞を挿入しましょうという授業で、当時私の考えた台詞は生徒たちの爆笑を誘ったが、どういう台詞だったかはおぼえていない。そのときの気持ちは「ま、こんなところだろう、俺面白いし」みたいな具合だった。それから何十年かして、Webの「ボケて」というサービスが当時の空白の吹き出しに台詞を書き込む作業に似ているが、私の投稿したものはちっともウケない。ウケないし、自分で読んでもあまり面白くない。他人の考えたもののほうがずっと面白い。私は昔からテキストの笑いが好きだから本当に涙を流すくらい笑って家族からは気持ち悪がられたが、自分のものはそれに到底及ばない。そういえばこのブログでも最初の頃は面白さを狙った記事も投稿したが、最近はまったくやらなくなった。しかし私は全く笑いの才能がないわけではなく、日々の記事でもユーモアは欠かさない。また、記事だけでなく会話にも笑いは入れている。それはちょっとした心がけ程度のものであり、相手の緊張感をほぐしたり、自己満足でやっている。というよりほぼ条件反射的なぶぶんもある。

会社で「こんなとき、あなたはどうする?」みたいなクエスチョンが出され、それは比較的ざっくばらんな場だったので、本音では「女房に迎えに来てもらいます」と言いたかったが、上司先輩もいるので「彼女に迎えに来てもらいます」みたいな上品な言葉に差し替えた。彼女でも少しはウケるが、女房のほうが破壊力はあった。そういう歯がゆさを感じながらふと、笑いとは他者の目線である、と悟った。質問では「あなたは?」となっているが、私は「あなた」のことなんてちっとも考えず、「あなた」以外の人が、どういう感情になるかばかりに関心を寄せている。私はものを書くときにいつも、もっと原始人みたいに書きたいなあ、と思うのは、常にここで読者はくすっとなるだろう、とか考えてばかりだからである。別に原始人が配慮に欠けているとかそういう話ではないですよ? だけれども原始人は文字を持っていないから、文字の始まりとはそのまま自意識の目覚めであると言っても差し支えないのかもしれない。つまり原始人のように書く、というのは土台無理な話なのだ。原始人を幼児に置き換えても同じである。私たちは義務教育くらいまでは封建社会でそれから革命やら戦争を経て現代人に追いつくのである。追いつくとしかしもう用無しなのか、時間ばかりが早く過ぎ去っていく。どうして途中から笑いの話でなくなったのかと言うと、以前も同じこと書いたなあと思ったからです。