意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章をうまく書くには体言止めを使うと良い

たまにホットエントリーされている記事のコメントを読むと、「文章がうまい」とほめられているものがあり、うまいとほめられる法則を自分なりに考えると、どうやらそういう記事は体言止めが使われているようだ。体言止めというのは、「体言止めを使う私」「台風が過ぎ去った翌日の川」というように、人や物を最後に持ってくる手法でこうして書いてみると確かに「私は文章という物を意識しています」という感じがして、ほめる側がほめやすい環境が整う。あと「止め」だけあって、独特の間が生まれる。実は私は文章における「間」というものが苦手で妙なところに句読点が入ったり、改行が入るのも苦手で話が飛ぶ場合でもわざと改行を入れなかったりする。間は現実味を破壊する。そもそも私は自分がしゃべるように書きたいと思っているので、体言止めみたいなしゃべり方をすると気持ち悪いから書くときもあまり使いたくはない。しゃべるように書くとはおそらく誰もが考えていることだろうが、しゃべると言っても独り言の場合と会話の場合があり、私の場合は前者だが後者のことを指す人もたくさんいるだろう。私は結局ひとりだから無駄に騒がしい文章は書かず、静かな部屋で耳をすませて聞くような書き方をしている。

とにかくうまい文章を書く法則はわかったのだが私はそういう記事についてあまり最後まで読みたいと思うことは少なく、もちろん最後まで読まなくても面白いものは面白いがこの手の記事は「もういいや」という気にさせる。とにかく過去の話をする場合は気をつけた方がよい。「コミュ障だった過去の私」とか出てくると「またか」と思う。人と違うことをやりたい、というくせにいきなり量産型の過去が飛び出す。とにかく人より目立ちたい人にはまずは過去を改竄することをオススメする。「私は飛び抜けて頭が良かったから誰もついてこれなかった」とかで良いと思う。これらは結局同じことを言っている。「過去は明るく、未来は暗く」のスタンスでやればもっと面白いものが書けるから参考にしてほしい。

そういえばここのところ定期的にキャンピングカーでヤギを飼いながら旅を続ける人のブログが話題になるが、私はあの絡みの記事を読むのが楽しい。批判する人とそれに言い返す件の人のやり取りがプロレスのようで読んでいてスカっとする。やはりこれも一種のやらせなのか。お互いに「あなたには関心はありませんよ?」みたいなことを表明するが、その実お互い放ってはおけないようである。互いに隙を見せ、互いに致命傷にならないように攻撃するのである。ところで「互」という字は点対称である。