意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

このブログがライフワークになったら嫌だなあ

少し前にこち亀が最終回を迎えるにあたり、こち亀にどのくらいドラえもんが出ているかをまとめているページがあったから友達に教えてあげた。私の友達にはドラえもん好きの人がいた。そうしたら興味深い、と返事が返ってきた。それはLINEというグループアプリであり、私と彼以外の人もグループにいて、その人が
こち亀こち亀の作者にとってライフワークだ云々」
ということを行った。彼の名前を仮にTとする。私にとってライフワークと言えば、もちろんライフワークという言葉の意味を考えれば誰でもそれなりに人生を費やせばライフワークと呼べそう、あるいは別に何をしてもしなくても生きて入れさえすればライフワークと呼べる感じもするが、まず手塚治虫の「火の鳥」を思い浮かべる。私が読んだのは角川文庫のバージョンで、白いシンプルなカバーに赤い帯で
「これが手塚治虫のライフワーク」的なことが書いてあった私はそのとき初めてライフワークという文字を目にしそしてとても感銘を受けそのときは一巻しか読んでいなかったから残りの巻もあわてて揃えた。私の中ではライフワークと火の鳥は1対1の関係なのだった。

論理的にめちゃくちゃだが私のブログも一昨年の5月から初めてほとんと毎日更新し、下手をしたら死ぬまで書き続けるんじゃないかと思うときがある。昔のTwitterで知り合った人とメールのやりとりをしたときがあってその人はいつも文末に「それではご健筆を」と添えていてそれが実際にある言葉なのか知らないが実際にはないその人の創作語だったらどれだけ素敵だろうかといつも思っていた。貸した本に押し花の栞を挟んで返すみたいな奥ゆかしさがあって私はいつも和んだ。そして私はいつも決して折れることのない樫の木かなにかでできた万年筆のような物を思い浮かべるのだった。そんな風に私は死ぬまでご健筆なのかもしれないが、以前はそんな風にどこまでも書けそうな気がする、という感覚は書けなくなる日を呼び込みそうであまり言葉にしたくはなかったが、今はまあいいかという気持ちになってきた。

論理的には破綻しているが私の祖父は生前毎日ノートに2、3行の日記をつけていて死後それをみんなで読んだ。祖父は最後は私の顔も忘れてしまうくらいで、そういう症状が進むとノートの文字もどんどん崩れて最後はうにょうにょうにょ、とボールペンが波打つだけになった。まだそうなる前に叔父が妻と離婚する少し前には二人を案じるような箇所もあり、それを読んだ私たちはやはり和んだ。言葉にしなくても心配していたんだねみたいなことを誰かが言った。そういう体験をした私がもし死んだら家族にこのブログを読んでもらうのもいいかもしれないが、たぶんすぐに嫌になってしまうだろう。私は仮にあと3ヶ月の命とかみたいなことになったら子供に「死んだら読むように」みたいなことを言うかもしれないが死なずに子供が大人になったらもうそういうことを言い出す機会はこない気がする。妻は教えても読まないだろうし親はもっと読まないだろう。しかし読まれないつもりで書いた物の方が読む方は楽しいのかもしれない。「勝手にやってくれよ」という気楽さがあるかもしれない。