意味をあたえる

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「意味をあたえる」の読み方~当ブログ千記事目に寄せて

この記事が千投稿目というわけではなく、本当はもういくつかあるのだが、このブログサービスを使っている人ならわかるだろうがこのブログサービスは記事を投稿する度に「これで○記事書きましたよ」とお知らせする機能があり、あまり気にしないようにしてきたが、980くらいから馬鹿に目に付くようになり、私は本当は節目だからなんだとかそういうのは好きじゃないがたまにはそういうことも良いだろうという気になった。そういう気になると、まだ千を超えてなくとも書いてしまおうというのが私の性分なのである。私は少なくともこのブログにおいては準備するとか下調べするというのはしないようにしていて、「千本目の記事を書こう」と思ってもそれが本当に千回目にくるかはわからないのである。どうして待てないのですか? と聞かれればたとえばこの記事を990目に書き上げて用意していたとして、しかしそうなると991から999までがつなぎの記事になってしまい、そういうのを他人様に読ませるわけにはいかないのである。たぶんほとんどの人は、私が今言っていることは意味不明だろう。私はいつでも意味不明なのだ。中学の美術のときに彫刻刀の使い方をマスターするためにカマボコ板の大きいのに表札を掘る授業があったが、たいていの生徒が律儀に自分の姓だとか、「入ってこないで」とか、メッセージ性の強いものに取り組む中、私は「竹馬」と掘った。どうしてなのかと言えば、馬という字は縦横が多くて掘っていて飽きないと思ったからである。だから竹についてはどうでもよく「木馬」でもよかった。私はそんな風にきちんと主張したか忘れたが、教師は「好きにしなよ」と、匙を投げていた。私は聞き分けの良い生徒なので、言うとおり好きにした。

とにかく私は日本語的にちゃんとしようとか、筋の通った主張をしようとかそういうのには無頓着なのに、書いた順番はきちんと守るとかそういうのには正直だった。私は思ったことを書こうと思っていた。思うことは日々変わるから、書き終えたら早く公開しないと落ち着かなかった。実際、書き終えたものの公開する機を失って下書きのままの記事もある。そういえばずいぶんたって「いついつの下書き」として出したものもあったが、あれは特に抽象的だったからいいやー、と思った。

私は私の書く物についてどれくらい読んでいるのか、ひょっとしたら誰も読んでないのではないかと疑うこともあったが稀に反応があり、それを読むと中身を読まないと絶対に書けないようなことだったので私は確信を得ることができた。私はとにかく何かを組み立てるような文ではなく、例えば家で言えば平屋を建てるように横方向に気を払っていた。だから読者の反応がときに私からすると不可解なこともあったが、そんなときは私の本文を読み返すと「ここのぶぶんだったか」と納得するときがあった。私が話があっちこっちにとっちらかる理由について私は少し考えたが、それは昔一時期漫画を書いていたからではないかと分析した。漫画というのは一つのコマであっても複数の登場人物に別々のセリフを言わせることができ、そこになんのつながりがなくても、ストーリーは破綻しない。読者はぜんぶ見なくてもいいからである。しかし、文章とは基本的に一本のロープをたどっていく作業であり、手を離したらたちまち道に迷う。その点の自由度が誠に低い。読み手も書き手もかなりの制約を課されているが、「本を読むと偉い」という思い込みのために、それを受け入れているのである。

しかし私は人間の思考とかイメージというのは漫画に近いと思っており、その点ではあと100年200年したら、まとまった文章を読む人なんていなくなるのかもしれない。私は頭の中に近い状態を書きたいと思っている。私は伝えることよりもそういうことに重点を置いている。そうやって書き続けたら私にとって私の過去が、他の人のそれとどうやら違うようだ、ということに最近気づいた。