意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

その場しのぎの自分で良い

誰かが誰かを悪く言っているのを聞くと、言われている側を無闇にフォローしたくなったり、どうすれば関係改善につながるかを考えたりする。しかししばらく経つとなぜか仲良くなっていたりして、言われていたほうはともかく、言っていたほうはまるでそんなことはなかったのかのように振る舞って、私としては怒りがこみ上げるというか、混乱する。私は誰かを悪く思うときは、100パーセントの正当性を持って主張をするが、感情に振り回される人も一定数いる。というかそういう人のほうが多いのかもしれない。私の過去には2人くらいそういう人がいて、どちらも苦手であった。私はなるべくならフェアに人と接したいと考えているが、そうすると嫌いなぶぶんと好きなぶぶんを同時に自分の中に存在させなければならず、その安定しなさに疲れる。しかしフェアでなければならないなんて決まりはなかった。

要するにそういうのに振り回されたのが私の半生であるが、要しないと、毎日人に会っている。ところで自分らしさの求め方とはなんなのか。それは他人と自分との差異によって求めるのが正道のような気がするが、しかし自分の定義がままならない。多くはその定義の段階で「らしさ」を織り込もうとする。用意するためには情報が必要であり、結局は踊らされ、行き着く先は押し付けられた自分である。

私は経験至上主義なのだろうか。

何日か前に天職を見つけるためのノウハウが書かれた記事を読んだが、「簡単な」とタイトルについているだけあって、中身については簡単に忘れた。そういえばここ何日か「子供が死ぬかもしれない」と大騒ぎしながら、一方では天職を見つけるためのノウハウを学ぼうとしている。天職、と言われたってそれがどういうものなのかわからない。投下するエネルギーと付加価値の差が最大化する職業ということだろうか。たぶん私のその考えに同意する人なんかいないだろう。好きな仕事、という言葉の響きすらいやらしい。