意味をあたえる

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3Dメガネ

朝か昨晩に保坂和志「遠い触覚」を読んでいて、あと少しで読み終わるという残り少なさだが、最後に近づくほど読むのが遅くなっている。山下澄人は最初のころに感じた「おおおー」という感じがなくなっている。「壁ぬけの谷」という小説を読んでいるが、これは「ネオ百年の孤独」と名付けたいくらい「お前誰だよ?」と読んでいて頻繁に思う。小島信夫小島信夫だ。書いてあることがよくわからないのに、読み進めるのになんの苦労も伴わない。放置した小説は再開したときにどういう話だっけ? と少し前に遡ったり、頭をその小説モードに切り替えたりするが、「寓話」はない。今は森敦と電話で話している。少し前から森敦「月山」を読んでいて、そうしたら昨日ひさしぶりに「寓話」を読んだら「月山」に出てくる地名が出てきて嬉しかった。私は残りの人生を「寓話」に登場する小説だのを読んですごそうか。「寓話」は小説でない気がする。保坂和志のエッセイも同じかんじがするが、私は猫を飼ったことがないから猫の話が出てくると疎外をかんじる。あるいは頭を猫モードに切り替えなければならない。そういえば小島信夫の他の小説に保坂和志が登場したとき、保坂は
「猫が死ぬのは人間が死ぬよりずっと悲しい」
という主張を三回か四回していて、これは今思うと小島が猫に嫉妬してそんなことを言わせたんじゃないか。小島自身も「猫のことはよくわからない」と同じ小説で書いていた。だけれども保坂和志なら「人間<猫」とあえて言ってそこから思考をほじくっていく、むしろ「人間<猫」になるためにはどうするか、という思考をしていると考えられる。

ところで「遠い触覚」のなかでゴダールの映画を見に行ったことが書かれていて、そこで3Dメガネを渡されるときに100円請求されてむっとするシーンがある。そのあと延々と3Dメガネをかけたほうがいいのか否かについて書いている。3Dメガネをかけると茶色っぽいみたいな。私はずっと前にどこかで「保坂和志ゴダールの映画を3Dメガネをかけずに見た」というのを読んで、なんでも言うとおりにしてはダメなんだなあと身が引き締まった。あと猫が川に流されるシーンについて、猫はお話のなかで流されるからそのあと川から助け出されると考えられるが、その出されるシーンまで撮らないとゴダールらしくないと書いていた。犬でした。ゴダールゴダール、と書いたがゴダールだかもあやしい。私はゴダールはひとかけらも見たことがない。映画はびっくりするくらい見ない。いちばん面白かったのは「カンフーハッスル」だ。たぶん一年は映画館に行ってない。それはどうでもいい。私は少しは小説は読むが、小説の小説っぽさが最近は疲れる。頭にくる自己の定義だとか、そういうのがない小説にはあまりお目にかかれない。あっても難解なぶんしょうだとやっぱり疲れる。

あと最近「文系のための数学」みたいな本を読んでいるが、この手の本の途中に出てくる「この先は式が出てきて少し難解になります。読み飛ばしても構いません」という文句は一体なんなのか。私はそんなこと言われて本当に読み飛ばす人がいるなんて、とても信じられない。