意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

教師は聖職ではない

岩牡蠣さんのツイートを見て、ああ、あの先日の福島から避難してきた児童を教師が侮辱した事件を指しているのだな、と思った。私はあのニュースにつけられたコメントを見て、「信じられない」という言葉が並んでいるのを見て「そっちのが信じられないよ」と思った。私が信じられない、というのは教師だって生徒を侮辱することはあるだろう、という意味である。教師は聖職だ、と言われることもあるが、私はそれにしては人数が多すぎると思っている。つまりオリンピックのメダリストだとか、総理大臣経験者等なら、自分の思考とはまるで違うので、そういう人がとんでもないことをやらかしたら「信じられない」という感情も持ちえようが、「なん年なん組の担任」程度の人なら私と大差ない、地続きの人物だと思っている。つまり私が誰かを侮辱したいと思ったり、また実際に侮辱してしまうことがあるのだから、教師がそれをしたって「信じられない」とまではいかない。インターネットの書き込みを真に受けても仕方ないのかもしれないが、「信じられない」という感情を抱いた人は少し冷静になったほうが良い。

どうして冷静になったほうが良いのかというと、過度の期待をしてしまうと、子供のリスクが高まるからである。いくら子供想いの人物がそれが高じて教師になったといっても注意力が散漫になることはあり、そうするとイジメを見過ごすことになり、また子供想いが目隠しになって、私の子供が無実の罪を着せられることになるかもしれない。だから私は過去に子供が「学校に行きたくない」と発言したときはとにかく理由も聞かずに「まあいいんじゃない」と了承し、そこを起点にしてだいたいどの程度の「行きたくない」かを測ることにした。行くことが前提になると、とちゅうの論理が雑になる気がしたからである。結局子供は行かないことになって、するとその日のうちに担任と学年主任がやってきて、私が仕事から帰ってきたときにはすでにニコやかなムードになって、メガネのおばあさんみたいな学年主任が、
「まあ入学したてにはよくあることですよ」
と語り、その後子供は卒業までほとんど休まずに学校へ通った。学年主任の「よくあること」は私を揶揄しての発言だったのかもしれない。しかし私が「過保護な親」と笑い物になって済むのなら、それで良かったと思い、私の子供には妹がいるからそのときにも同じ対応をしたいと思っている。しかし私のやり方は私だけのやり方であり、なぜかというと私には妻がいて、妻はとにかく学校へは何が何でも行かなければならないという人で、それは世間の目とかそういうのもおそらくあって、そういう妻に対しての牽制も含めて「学校なんて行かなくてよい」と主張できるのであった。担任は黒のRV車を我が家の庭に停め、それは戦車のようであり、おかげで私は道端に車を停めなければならなかった。実際担任の女教師は髪を短く刈り上げ、教師というよりも教官のようであった。これは私の記憶の中で好きなエピソードであり、以前書いた小説でも使った。休日はその戦車を駆って、渓流釣りなんかに出かけるのだろう。それは気晴らしであり、生徒のことなんか完全に忘れ、いやむしろ「あいつが気にくわない」などの文句を言っているかもしれない。私はそういう人物のほうが好きだし信用できる。クラス全員を等しく好きにならなければならない、と気負うような人は危なっかしくて見てられない。私の小学生のほうの子供は今年三年生で三年間みんな若い教師であり、二年目と三年目は新卒の教師だった。私は若い教師は嫌だったが、子供のほうは喜んでいる。しかしふと、その上の現在高校生の子供が小学のときの教師たちはどこへ行ってしまったんだろうと思った。あとから子供に聞かされるまで知らなかったが、上の子の担任の中には円形脱毛症になったり、授業中でも毛布をかぶってガタガタ震えていた教師もいたそうだ。円形脱毛症については知っていた。