意味をあたえる

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ダメなものはダメ

橘玲「言ってはいけない(新潮新書)」を読んだ。この本は副題が「残酷すぎる真実」となっており、また帯には「この本の内容を気安く口外しないでください」と書いてあるが、私としてはそこまでショッキングな内容というわけではなかった。ピンとこないぶぶんもあった。だけれども確かに家族や友人に気軽に話す内容でもないと思った。結論として「ダメなものはダメ」というふうになりやすく、話しても空しくなるからだ。

私はおそらく十代のころから普通に「努力してもダメなものはダメだ」という風な感覚で生きてきたが、私以外の人がその言葉を口にすると無性に腹が立った。理由を考えると「(ダメなものはダメなんだから)努力しても仕方ない」と、後ろ向きな捉え方をして、やけっぱちになったり、生きていても意味がないみたいな雰囲気になるからである。すると、私はこの「ダメなものはダメ」を前向きに捉えている節がある。

理由を考えてみると、私は15歳になる少し前に五木寛之の「生きるヒント」の中の「想う」の章で著者が「わたしはやっぱり人生には希望はないと思います」と書いてあったのに衝撃を受けたのが影響している。私の記憶が確かなら読んだのは文庫で「人生に希望は」まででページが終わり、めくるといきなり「ないと思います」となっていて、それがタメのようになっていてなおさら衝撃を受けた。「やっぱり」という前置きも、さんざん熟慮し、古今東西の意見を耳にした結果、というかんじがして最初から私なぞとりつく島もないという雰囲気がした。本のあとがきには「これは私の考えですから、違うと思ったらそれはそれで正しい」みたいなことが書かれていたが、そんなの嘘だと思った。

それまで私はなんとなく、世の中には不幸なことや後ろ向きな考えもあるが、総量としては幸福が勝ち、また世界は良いほうに向かって動いている、というふうに考えていた。いや、それは考えではなく感覚とか、わざわざ考えるまでもないことだった。私の父親は社会制度とか割とネガティブなことを当時から口にしていたが、それ以外はだいたい耳当たりの良い情報を提供していた。そういうことは教えられるより、自ら実感するもの、という風潮があるのかもしれない。

しかし私は運良く世の中に希望がないことを教えられた。運良く、かどうかは知らないが自分が本当に夢も希望もない状態になる前に、考えることができたからラッキーだった。そのとき考えた答えは「希望がないならつくるしかない」だったが、当時の私からしても釈然しないものだった。そのためしょっちゅう「生きているとはすなわちなんなのか」みたいなことを考える大人になってしまった。

私は大人になる前に「希望がない」ということを真顔の大人に言われ、大人になる前でわりと時間もたくさんあったから「希望のない人生を生きる方法」を真剣に考えることができた。答えが出せなければ死んでしまうという意味での真剣だった。だからたとえ暫定的だったり根拠が乏しくても「希望がなくても○○がありますよ」とか「○○したら希望がありますよ」みたいな答えが出ないと我慢できない性格となり、結果として前向きな性格になってしまった。

「言ってはいけない」の衝撃的な真実にしても、見方を変えればある種の赦しがあるようにかんじた。あと、橘玲の本は何冊か読んでいるので、語り口に慣れてしまったというのもある。橘玲の本は突然「△△だから××なんですよ」みたいなことを言い出し、△△ってなんだっけ? みたいに思って読み返しても大し解説もなく、仕方なく△△は△△なんだな、と納得して先を読むといきなり△△の説明が始まって、というのが何回かあって、段落の順番とかもっとちゃんと考えたほうがいいんじゃないかと思う。