意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

想像か経験か

対象の創作物(主に映画や小説や漫画など筋があるもの)について、それが想像によって生み出されたものか、経験によって生み出されたものかについて考えることについては、あまり意味がないと思う。なぜかというと、自身の内面において経験と想像をわけるボーダーを引くのは不可能だと考えるからだ。小島信夫の「美濃」という小説は私小説で小島自身や、友人知人が出てきて舞台も著者の出身地の岐阜なのだが、そういえば登場人物はみんかそれ用の名前を与えられているが、古井由吉だけはそのまま古井由吉で出てきていた。それは「この前古井が......」みたいな伝聞だからいいのか。とにかく実在の人たちの実際あった会話や出来事が小説になっているわけだが、あとがきで小島は「登場人物の篠田ですが、実はとちゅうで心でました、あっかんべー」と読者を馬鹿にしたような書き方がされていて、つまりどこかの時点から篠田というキャラは架空になった。馬鹿にした、というのはつまり当時は今よりもずっと私小説のボーダーについて厳しかったからではないか。当時というのは私の生まれた当時である。私はそういえば「美濃」を読みながら章ごとに日付が入っていて、それが私の生まれた日をまたいでいて、妙に感慨深かった。内容自体は難解でつかみ所がなくて、しばらく読みたくないという感じだった。とちゅうで死んだ篠田という人物についても画家であることはわかったが、物語の中で何をなしたか、まったく説明ができない。忘れたからではない。読み終わった直後でも説明できなかっただろう。

ある人は私のこの文章を読んで、つまり「美濃」は篠田が死ぬ以前は経験で書かれ、以後は想像で書かれた今風の言葉です言えばハイブリッドな物語だったんだ、という意見を持つかもしれない。私が「でもそれ以外は生きていたんだぜ?」と反論しても、「それは組み合わせの問題で、生×生は経験で生×死は想像で書かれた」と返され、そう言われればもう何も反論はできないが、どうしてわざわざそんなに複雑に考える必要があるのか。結局は経験も想像も過去という紐で結わえれば大差はない。

例えば「経験したことでしか、リアルな物語はつくれないというが、そうしたら推理小説の類はみんな殺人者が書かなければならないのか」みたいな話があるが、実際に現在の推理小説家が実際に人を殺した人はひとりもいないだろうが、人が殺される小説やドラマを見たことのない人もひとりもいないだろう。私からするとそうしたことも「経験」であるから、だからある意味では経験からしか物語がつくれないのは正しい。過去という俎上では実体験かどうかはあまり重要ではなく、そこにどれだけリアリティをかんじるかが問題である。