意味をあたえる

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村上春樹日和

読んでいるブログで立て続けに村上春樹がふれられていて、何かあるのかしら、と思う。そういえば新しい小説が出るというニュースを見た。読んでもいいと思った。読んでいるブログでは「村上春樹の新しいやつがどうこう」という話でもなかったが。私自身は小説にかんしては「海辺のカフカ」以降読んでいない。小説以外では「そうだ。村上さんに相談しよう」シリーズを20代の頃は熱心に読んだ。その中で村上本人が「村上以外の小説も読んだほうがいい、散らす、という意味で」みたいなことを書いていて、それを真に受けたわけではないが、色々読もうと思った。その頃は自分でも書きたいと思ったからである。短い小説をいくつか書き「村上春樹の短編ぽいね」と言われるのが面白くなく、どうにかして村上春樹を相対化しなければならないとかんじていた。今なら言われても「まあそうかもね」くらいにしか思わないが、それもやはり色んな小説を読んで、自分の中の「村上春樹領域」が安定してきたからだ。このブログを始めた頃はたまに
保坂和志っぽい文章(あるいは組み立て)」
と指摘されることがあったが、そのときはほくほくした気持ちになった。それだってたぶん初めから「保坂和志領域」が確立されていたからだ。山下澄人っぽいね、と言われたことはないが、言われたらもしかしたら動揺するかもしれない。とにかく領域をつくるためにはその領域の外に立たなければならない。と思ったがふと山下澄人がエッセイとかでいつも保坂和志の新人のころの250→200に削れという編集者からの要求に、じゃあ200のとこれで切って載せろ、と言った、というエピソードばかり書くのを思い出し、もしかしたら中へ中へどんどん行くとそのうち外へ行き着くかもしれないと思った。外というか。

村上春樹が世界的な小説家であるが、私がとくに考えもなく村上春樹について書けるようになったのは割と最近のことであり、それは山下澄人のそういうのが影響しているのかもしれない。2010年くらいはハルキストという言葉が流行って、村上春樹はネット上で悪なイメージだったが、最近は
村上春樹面白い」
という人も増えて、なんか一周したかんじがする。結局一周につき合わされた私は
「なんだかなー」
と思うわけだ。

川添さんが「羊をめぐる冒険」について書かれていて、私は以前から「ダンスダンスダンス」再読しようと思っていることを思い出したが、もう一生読まない気もする。「ダンスダンスダンス」は羊をめぐる冒険の続きにあたる話で、のっけから「いるかホテルのことを夢に見る」みたいな話題が出て、続きであることを読者にアピールする。私は本屋で文庫本を買うか悩んだが、それを読んで「読めそう」と思ったから買った。デパートの5階にある、比較的小さな本屋だった。小さい本屋なので文庫コーナーからレジまで5歩で行けた。「ダンスダンスダンス」は平積みされていた。とくに新発売というわけではないが、当時から村上春樹はよく売れた。昔はAmazonとかなかったから、読む本のスタイルは小さな本屋の影響が大きかった。ない本は注文できたが、私は本屋の店員と話すのは嫌だったから、一生注文なんてしないと思ったが、そのうちやむを得ずするだろうと思ったらそのうちネットが出た。もう西武百貨店みたいな馬鹿広い本屋で背表紙に果てしなく並ぶ文字列から任意の単語を探す作業をしなくていいんだとほっとした。昔宮崎駿が面白いと言っていた「ブラッカムの爆撃機」という本はついに見つけられずじまいだった。私は同じ著者の違う本を購入して読んだが、大して面白くもなかった。

川添さんの記事をもう一度読んで、一般論というワードが心に残った。私も一般論ばかり話す人間であり、たまに自分の一般論っぽさにうんざりする。しかしフェアになるために、やむを得ず一般論にとどめるというときがある。そうやってとどめ続けるうちに、すっかり一般論名人になってしまった節がある。しかし一般論にしたって、海の中のひとつの水の流れにしかすぎないのだろう。