意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

このブログについて

最近Googleの本を読んでいて、Googleはエンジニアばかり大事にされ、それ以外の営業などは軽く見られている気がして不満だ、みたいな内容を読み、ちょうど私の会社と逆で私の会社は営業ばかりが幅をきかせてワイワイやって、
「仕事なんてうんざりですよー」
なんて言いながら仲間と数字を達成したときは思わずウルっと来ちゃいましたなんて言っていて、私は騙されたような気持ちになった。まず、「うんざりですよー」と迷いなく表明してしまうところから今思えば浅はかなのだが、やはり長くやるとうんざりしない場面もあるわけだから、もう少しうんざり表明も控えめにやらないと、いざホロリときたときに、自己矛盾を起こしてしまう。しかしこの手の人たちはそのときはそのときの感情が支配するから矛盾など起きない。むしろ私のほうが変なのかもしれないが、ホロリとくると、この感情は私の日々の思考に対して妥当か否かをついつい検証してしまう。否だと恥ずかしいから顔を隠す。しかしそもそも感情的になること自体が日々の思考と相容れないから、私としては感情的になった時点で恥をかいたのと同じなのである。このように書くと私が常に冷静、冷徹な人間のようで、また実際に「冷たい」「感情がない」と言われるが、私は案外気が短いし、感情豊かだ。イライラすることも多い。じゃあ結局自己矛盾ですねと言われればそうで、確かにそうで、そう考えると私が矛盾を避けようとするのは一種の趣味といっていい。他人の矛盾が許せないのも趣味だ。散らかっている部屋が我慢できない的なイメージを持ってもらえば良い。

話を戻すと私は内勤だからことあるごとに外勤ばかり優遇される社内の空気にうんざりするために、Googleの営業に感情移入したが、私としては虐げられる立場で良かったとも思っている。最初から弱い立場だとわかっていれば何も期待しないし、いざ不利な条件を言われればたくさん愚痴を言える。愚痴を吐くのは楽しい。「この会社はくそったれだから」と言うのは気持ちがいい。例えばそこに自己の至らなさがあると気持ちよさが半減され、実際至らないぶぶんもあるのだが、そういうのを「会社の風土」が覆い隠してくれるのである。

Googleの本ではアドセンスやアドワドーズについての誕生の背景的なことも書かれていて、たくさんの社員が苦労して作り上げたみたいなことがあると、「やってみようかな」と思うが同時にGoogleの目指すものと私のポリシーが全く相容れないことにも気づいた。私は最近たまに思うが、このブログには新しいものは何もない。既存の事実や過去を私の言葉に直しているだけである。そこにはクリエイティブなぶぶんはまったくなく、単なる作業である。なので私のそういうスタイルに合う検索サービスが誕生し、一般的になればと願う。