意味をあたえる

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森尾由美

森尾由美万年カレンダーというのがあって、別に森尾由美万年カレンダーを制作したわけではないが、固い紙に円がついていて、それをぐるぐる回すとカレンダーの曜日が動いて何年何月のカレンダーができる仕組みになっていた。よくよく思い出してみるとそれは裏側の設定で、表側は世界時計となっていた。円の中に世界地図があって、どこかの都市の時刻を合わせると他の都市は何時になるのかわかる仕組みになっていた。その円の外側にいかにもわくわくした表情の若い森尾由美が写っていたのである。森尾由美はノースリーブの服を着て、肩からポシェットを下げ、肌は日焼けして健康そうであった。

それはもともと父の部屋にあったもので、しかも何かのイベントでもらったのか複数枚所持していたので、私は一枚を無断で持ち出して、長い間自室の引き出しの中にしまっておいた。父の部屋と私の部屋は壁一枚隔てた隣同士だったので、森尾由美はそれほど移動したわけではなかった。私は当時は万年カレンダーはとても便利なものだと思っていたから大事にしていた。例えばそのカレンダーそのものは1989年とかそういうときに作られたものだが、その気になれば2015年とかの任意の日にちの曜日を把握することができたからその年がくるまでは古くならないだろうと思っていたのである。当時の私は、まさか2000年代がくるなんて思ってもみなかった。理屈ではやがてくるのはわかっていても、感覚としては1980年代と90年代が無限にループするだろうと思い、平成は永遠に一桁だと思っていた。何かのニュースに「平成7年頃には」みたいなフリップが出ていて、どうしてそんな未来の話をするのだろう、と不思議に思ったことを、今でもおぼえている。おそらく、その頃の時間の流れがいちばん遅かったのだ。

大人になると、あるいは人生のある地点にくると、人生そのものの見通しが立つようになる。万年カレンダーもやがて古くなり、どこかへ消えた。この前「クレイジー・ジャーニー」でフィジーだかどこかの原住民がその辺で拾ったスプーンやら白髪染めをリュックにしまって大事に持ち歩いており、森尾由美万年カレンダーも、私にとっては同じものだったのではないかと、ふと思った。しかし原住民は私の同年代か、もっと上であり、それでも彼らは人生を見通せていないのか、あるいは人類を見通せておらず、役に立たないものを大事にするのか。あるいは次元の問題なのか。

万年カレンダーを可能な限りの未来を表示させたときの感覚が懐かしい。確かそのカレンダーは、せいぜい15年くらい先までしか表示できなかったのではないか。するとそこにあったすべての日にちを、私は通り過ぎてしまったことになる。過去の私が未来を見ようとするとき、未来の私も過去を見ているのだろう。