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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

明日のタイトル

いつも記事を投稿したあとにTwitterにも手動で更新通知を載せるが、そこに書く見出しみたいな文句に毎回苦戦している。そもそもわざわざTwitterに投稿するのはなぜなのか。投稿すれば閲覧数が上がると思っているのか。それはそれとして、私はとにかく毎日書けるだけ書いて投稿するからTwitterに何かを書くのは本当に難儀する。記事内容を要約したものを載せるのがTwitterの正しいあり方なのだろうが、私は書き終わった時点でもう書いた内容を忘れているから、まとめるなんてできない。それ以前に容易に要約できてしまうものなら、最初から要約して書けば良いと思う。書き漏らしても、あなたの書こうとすることはすでに誰かが書いているから大丈夫なのです。

要約なんてくそ食らえという、私はスタンスなのですが、しかし実生活で私は要約が得意なほうだと思っている。小学時代は「要約がうまい」と先生に誉められたことがあるし、今でも会話で「要するに」を多用する。自己分析するとこの「要するに」は話を整理すると見せかけて、自分の方が能力が上だということを暗にアピールし、その後の議論を自分ペースに進めさせるための布石と見ることができる。あと「要するに」と言いながら、要していないことも多い。自分の都合のいいぶぶんだけ抜き取って、うまくまとめられない相手に先に提示すれば、相手は自分の主張がすり替えられてしまう。みなさん、「要するに」という言葉に注意しましょう。

考えてみると、世の中のすべての人が自分の言葉に固執しているように思える。言葉はその人を形作るなんたらだから、簡単に置き換えなんてされたくないのだ。私は若いころ年上の人とまじめな話をしたときに聞き手である私がどのくらい話の内容を理解しているか示すために、
「つまり、○○ってことですか?」
と確認し、相手は「そうそう」と同意してくれるのに、その後その人の話の中に「○○」という言い回しはまったく登場しないのである。私はそのような現象について、昔は「相手が合わせてくれただけで、実は私は理解できてなかったんだ」と思っていたが、単に人は外から来た言葉には容易には置き換えられないというだけの問題だったのかもしれない。

逆に相手の言い回しをやたらとマネする人はいかにも嘘臭いし。