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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

親子

これもまた感想だが少し前に狼男の親子のアニメがやっていて私は熱心に見る気はなかったので波縫いのように見たり離れたりして最初のお父さんが下水から引き上げられる前後は見たがなんか悲しくなってしばらく見なくてあとはラストのほうの台風がくる前後を見た。私はこの後の「バケモノの子」も見たことがあるがちょっと退屈だったので途中で早送りをしてしまった。本でも同じように「ああこれはこういうことなんだな」と私の中で納得がいってしまうともうとどまるのが惜しくなってぱらぱらと一気にワープしてしまう。ワープしないものの法則というのについて私はあまり真面目に考えようとは思わないがひとつには概念的抽象的なものにはワープはききづらい傾向にある。これは地道に徒歩でいくように読まなければならない。私は徒歩の読書は途端に眠くなってしまうのである。夜などに本を読んでいて眠たくてたまらなくなって夜だから眠くなるのは自然と思って灯りを消して目をつぶると途端に目がぱっちり覚めるということが最近ありこれはつまり私は本心では文字を追うことを拒否しているのである。私は本を読むことの好き嫌いは置いといて少なくとも得意ではないのだ。ひどいときになると見開きの右端から読み始めて左端にたどり着けないこともある。そういうものは一般的につまらないという評価につながりがちだがどうなのだろう。


よく人は誰も通ったことのない道をみたいな比喩を用いるが誰も通ったことがないというのは誰も興味を抱かなかった道である。そういうのを軽々しく口にする人の想像力とは極めて貧相なのである。道なき道とは例えば深夜の「クレイジージャーニー」を何回か見ればそれを見ているワイプの小池栄子が「わからない」と突き放すように言いつまりそれが理解できない道なのである。そういう道を開拓しつつお金もじゃんじゃん稼いじゃおという発想があるがそれは虫が良すぎるのではないかと思う。欲望は深いほどいいのか。中途半端に聖者ぶるなら欲望に溺れたほうがまだ救いがあるのかもしれない。そうしてカモられるのである。


私はオオカミの映画は退屈とかんじるほど連続して見なかったから評価ができないがそれでも子供が狼に変身したりしながら家中を暴れまわってアパートの大家さんに「犬飼ってんのシってんだかんね」と怒られるシーンを見て辛くなってしまった。私の子供は狼ではなかったがそれでもようやく駆け回れるような年齢になると家中を駆け回って手に負えなくなって例えばご飯を食べなさいと言っても言うことを聞かないので恨めしい。しかもそれは親に対する反抗とかではなくただ純粋に目の前のことが楽しいからいちいち親の言うことなんか聞いてられないからなお恨めしい。殴ればただの虐待だからそうなると途方にくれるしかないのである。私はそういうときにはもうお互い好きなことしようぜという風になって私は私で勝手にやるのだが身の回りには口うるさい人が多くそういう人のムキになっている姿を見るとなんだか私が咎められているような気になってしまう。