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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

かつてこんなに自信に満ち溢れた時期があっただろうか

私の子供は小学生で高校生もいるが今回は小学生の話です。娘は今年小学四年になって私の住まいのところの小学校は三年生から学級委員をクラスから選出することになってそれは前期と後期があって娘は前期の学級委員に選ばれた。そういうののやりたがりの性格なのである。そして四年生になった今今度は後期の学級委員になりたいからと前期の選挙には出馬しなかった。気になったのでその選挙では何人立候補したのかというと「2人か3人いた」という。その人たちは後期も立候補すると見られ私はちょっと今回はやばいんじゃないかと訊くと彼女らの演説を聞く限りは三年のときの自分のほうが全然うまいから問題ないと言う。確かに娘は口が達者であり生まれたときから私がそばで理屈ばかり言うからだった。小学校に上がるとテーマによっては私が負けそうになることもあるが私も負けず嫌いなので負けなかったがおかげでそもそも達者ではない妻や上の娘はすっかりかなわなくなってしまいすぐにキレるようになってしまった。


演説がうまいからと言って思い通りになるかは確率の問題でむしろ自信満々な娘が心配になるより一方で私はなぜこんなにも弱気になるのか。ちなみに私も三年の一学期に立候補をしたが票は私が自身に入れた一票のみでそれが恥ずかしくて以来立候補はしなくなった。それでも四年生になったら他薦で一度やることができしかしそれは後から仕組まれたことだとわかりその頃になると学級委員の価値は暴落して誰もやりたがらない汚れ仕事だったのである。そんなことも知らず私は「俺も捨てたもんじゃないな」と勘違いしてそれからイジメを受けるようになった。最終的に票が操作されていることを知ったのは二学期に誰かからそれとなく「小峰に手を上げろ」と言われ手を上げたら男子全員が小峰に投票し気の毒な小峰は「嫌だ、嫌だ」と泣きわめいた。しかし小峰は腕っぷしが強い方で普段はいじめる側だったのではないか。私の記憶ちがいの可能性もあるが当時は色んな派閥があってそういうのがぶつかり合ったり馴れ合ったりしたのだ。


とにかくそういう諸々が私の性格を決め私は振り返ってみて娘の「代表委員は楽勝」みたいな自身に満ち溢れた時期があったのだろうかと自問した。楽勝なんて本人は言わないが前期・後期を自由に選べるなんて私からしたら贅沢の極みだ。私は書きながら前期に落選し気を取り直して後期も立候補したら今度は娘にやぶれる子たちが気の毒になってしまった。彼女らはかつての私なのだ。私は以来諦めやすい悟りやすい性格になってしまった。悟りやすいというのは可笑しいのかもしれないが私は中学になってクラスメートの掘さんがイジメで不登校になった後母に「俺は人間関係について悟ってしまった」と語り母はその様子が心に刻まれた。


ところで「時期があっただろうか」のような「~だろうか」という言い回しな「~だろうか(そんなことはない)」というニュアンスというか感情が込められているというがしかしそれなら何故最初から否定で入らないのかは不思議だ。私なりに考えるに私の場合は「だろうか」と書ききるまでは割とイーブンでそんなことはないこともないみたいな気持ちだが最後は否定している。