意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

警察官が

警察官が振り込め詐欺にだまされそうな老人をくい止めるどころか逆に騙されてしまったというニュースがやっていて最初は「意味わかんない」とか「間抜けな警官」みたいなコメントがあって間抜けは間抜けだが意味が分からないということはなく警察官だってひとりの人間であるからつい気を抜いてしまうこともあるし抜かなくてもちょっとした思い込みや過去の記憶が判断を誤らせたということは誰に出もあるから私はだまされた警官には同情的でむしろどうしてこうなったみたいな最初から可能性を吟味することすら放棄した人が結局はカモられるのだろうと思った。だからといって私がカモられない保障はなくしかし自分もカモられるかもと思うのはひとつのお守りとして作用するのではないかと思っている。


そういえば少し前にも同じような内容の記事を読みあれは確か起業塾で騙されたみたいなのでその中で「人を疑うより信じる方が楽」とあってこれはまさしくと膝を打ったが「何言ってんだよ」みたいなコメントがあってどうしてこうも解釈が異なるのか私は私で自分の感覚を信じて疑わないがこう違うことに興味を抱いた。ずっと昔にTwitterで「傷つけるより傷つけられる方が楽」みたいなことをツイートしたらやはり「傷つけるほうが楽なんじゃないか」と言われその理解に苦しんだ。もっとも「傷つけられるほうが楽」というのは村上春樹が言っていた言葉で当時の私もほとんど受け売りで言っていたのでありだから改めて考えるとやはりどちらもつらいが比べたら傷つけられるほうが主体的でどうにでもなる可能性はある。傷付けた場合その傷がどのような状態なのかこちらは決して知ることができずそれが苦しい。他人は不気味だ。私は自分の親でもどんな風に考えているのかわからないときがあってそれは苦しい。もちろん苦しんだって仕方ないから割り切るが。「インベスターZ」の中で主人公の財前が資産家の同年代の娘を馬鹿にするシーンがあってそれから少しして財前は「少し言い過ぎたかな」と反省するがすぐに「まあいいか、二度と会わないし」と思い直すのだが私はこの能天気なかんじに驚いたが世の中の多くの人はこんな風に思うのかもしれない。確かに二度と会わない人全くの赤の他人ならば傷つけようが構わないまた逆に自分が醜態をさらしても気にする必要がないというのは全くの道理だが私はたまにどうして見ず知らずの人のご機嫌を伺ったりするのだろうと不思議になることがありやはりそういうのは私の自意識が過剰なのかもしれない。


話を戻すとそう考えるとやはり騙された警官はちょっと異常であり人は信じるより疑う方が楽ということになるかもしれない。信じる方が楽というのはしかしある種の自己愛でありそれは自分の感覚や直感を否定することを無意識が拒否するのだからこれは誰も同じだと思う。疑う方が楽というのは要は心を開きたくないということだからこの場合は矛盾しないのではないか。