意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

五時マン

子供のころ「大きな古時計」を歌いながら「ご自慢」の意味がわからなくてよく外人だとコールマンとかいう名前があるから「ゴジマン」という人がいてもおかしくないと思った。もちろんそう思ったのは今の私で子供の私がコールマンなど知りもしなかった。ついでに話の流れで「なんとかマン」を頭の中で探すにあたりジャズミュージシャンてなんとかマン多かったなあとあたりをつけたらオーネットコールマンとジョージコールマンが思い浮かんでどちらもコールマンで詰んだ。こういうのって頭に例えばをつけて例示する場合は最低二つは並べたいと思ってしまう。ひとつだと「例えば」が心もとなくなってしまうからやはり二つはほしいと思う。これを例えばの呪いとでも名付けようか。呪いなんて子供っぽいがちょっと今かっこいい言葉が思い浮かばないから。ついでにいうとサッカー選手でマクマナマンというのがいた。イングランド代表でたしかボランチだった。たぶん15年くらい前の選手で私は登場実況サッカーワールドイレブンというゲームに興じていてそこでは名前がマクマネマンだった。だからマクマネマンと言われた方がしっくりくるしマクマナマンのほうがひょっとするとパロディにかんじる。


パロディといえば数日前に川添さんがララランドのパロディ動画を自ブログで取り上げていてニューヨークバージョンが面白くて何度も見た。

ラ・ラ・ランドのパロディ合戦は楽しかった - Letter from Kyoto

私がニューヨークバージョンを面白いと思った理由は芸の細かいぶぶんと雑なところのバランスで細かいぶぶんとはエンドロールで踊っているところに通行人が道を訊ねてきて踊りが中断されるところで雑なぶぶんは特にアイディアのないシーンにピザでオチをつけるところだ。私は笑いとはどこか雑なところがなくてはいけないと思っていてきれいにまとめすぎるとつまらない。そう考えるとリアル・ララランドのパロディのほうはぜんぜん面白くなくてそれは私が英語を理解しないからではなく日本語でもつまらないだろう。とにかく言葉をつめすぎなのである。