意味をあたえる

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初夏

村上春樹のどの小説か忘れたがあるSF小説の設定で春夏秋冬が25年ずつうつりかわる星というのがあって今思うとそういう発想って一年中夏の国とかじゃあまりないから日本の作家だったりして。とにかくそういう星に生まれたら村上春樹としては夏の終わりに生まれるのがベストで少年時代は暑くて思春期から若い時代は秋で中年に移行が冬で年食って春を迎えうまく長生きできたら初夏までいけるという人生設計で私もそれがいいと思う。しかし私の今の年齢にあてて考えると冬に入ってクリスマスとかお正月が終わり糞ったれの残りカスみたいな時期に仕事でつまらない責任ばかり押し付けられたら死んでしまうかもしれない。今日のような初夏にジャックジョンソンをかけながらぼんやり過ごす日も必要なのである。おそらく村上春樹がそのことを書いた年齢も今の私より若かったと思われ今改めて考えたらまた違うのではないか。しかし子供の頃の気候が年寄りになって戻ってくるのはなんとなくウキウキする。


初夏といって思い出すのは小学二年のときに担任と「この時期にプールに入れれば最高なのにね」と話した記憶でそれは家庭訪問の時期でそう話した後に担任は私の家にやってきたのだ。暑かったのである。そしてプールが開始する時期というのは梅雨が明けるか明けないかの時期だから肌寒いことが多くそんなときにプールに入りたくないからやはり初夏にプールに入りたいがどっちにせよ同じなのか。なんにせよ今思うと小学二年でそういうこなれた会話が担任とできたのか微妙でもしかしたらもう何年か大人になっていたのかもしれないがもう確かめる術はない。私は小学三年と五年の記憶がほとんどなく今になればもう十代の記憶なんてどこをとっても似た色合いになってしまったが三年と五年はかなり昔から「あまりおぼえていない」とかんじていた。三年で唯一おぼえているのはクラスの自己紹介コーナーの似顔絵の欄に私の似顔絵にチンコを書き加えた奴がいて私は怒りながらそれを消したが消し方が甘かったのか後から担任が自分の机で一生懸命チンコを消したのを眺めている場面だ。あとは三年から代表委員というクラス委員を選挙で決めるときに私が立候補したら私しか手を上げなくて恥ずかしかったことくらいだ。


ふと気まぐれを起こして太宰治を読みたいと思い本棚を眺めたら私が所持していたのは晩年とヴィヨンの妻で晩年はちょっとポエミーだと思いヴィヨンの妻にしたトカトントンという有名な短編があり読んだら花江という女に誘惑される場面で主人公が海岸の穴蔵のような場所で不意に花江の背後にたくさんの犬の糞があることを発見し白けるというのがあって笑った。きっと犬だって隠れて糞をしたいのだろう。花江はどこかから移ってきたという設定だからそういうのがわからずに主人公を連れ込んだ。しかし逆に考えれば世の多くの男の性欲は犬の糞程度には負けない。誰か一人抱きたい芸能人を思い浮かべ「そこの犬の糞を食べたら抱けますよ」となったら躊躇する人はいるだろうが司会者が「この糞は殺菌してあって無害ですよ」と補足すればみんな喜んで糞を頬張るのだろう。しかしどんなにウンコを食べたからといって出てくるのもウンコなのだから人間の業は相当深いということだ。