意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

わたしの書いたものなんて誰も読むわけない

昨日はとちゅうまで書いて保存しそれから四時間くらいたってもう書くことないやと思い投稿したら書きかけだった。書きかけの最後の文だけ削除して再投稿した。私は私の書いたものなんて誰も読むわけないなんて子供っぽいことは思わないがそんなに身を入れて読む人はいないだろうから特に抵抗なく切ったり貼ったりできるのである。私は何日か前にここ数ヶ月のブログ記事を読み返したが半数以上は何かを言い残しているようなあるいは何かを言いかけたまま終わっている文の固まりだった。ひょっとしたら読者はいつも肩すかしをくったような気になっているのかもしれない。私は結論とか結論めいたものを恐れていて日常では「要するに」とすぐ言うくせに要したくないのでどこかに切れ目があればそれで終わりにしてしまおうという魂胆なのである。よく「○○という話でした」という結びの文を見かけるが本当のところそれは決して○○なんかではないのである。そう書かなければ終わった気がしないのは気のせいだしそう書かざるを得ないところまできたら書きすぎなのである。私は野暮は嫌なのである。書き終わったことを考え続けるのも野暮である。


ところで昨日の続きだが私は「私は思考に頼りすぎている」の次を書いて消した。それは「私もよくブログなどで「反復が大事」「運動が大事」と書くが書いた時点で思考なのである。メンタルをメンタルで制御できないことを言葉で説明しても無駄なのである。言われたほうは「納得した。気をつけよう」と思うがこれでうまくいった試しはない。私はやはり異常なくらいへっこんだ腹筋を見て腑に落ちるぶぶんがあった。保坂和志も思考について「思考とは頭でうんうんやることではなく例えば野球のバッターがいつもと違う軌道でバットをスイングするのも思考だ」と言っていてそれって試行錯誤では? と思うがとにかく「考えろ」と言うことくらい中身のない文句はないのである。メンタルとはなんだろう? なんでもない。わたくしたちはただ身体があるのみである。細胞分裂の音に耳を傾ければなにか変わるのかもしれない。知らんが。