意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

幸福

100分で名著の「人生論ノート」の第1回を見た。少し前に私は幸福についてあえて追い求めるものではないし追い求めればむしろそれを利用されてしまうのが世の中なのだということを考えまたどこかに書いたがそれについて裏付けを得られたような気持ちになった。私は少なくとも番組で紹介された内容については言われなくともわかっていた。腑に落ちるというのはそういう感覚を言うのである。


甥が来て寿司を食べに行った。甥はまだ2歳と0歳なので寿司はほとんど食べられず食べたのは母親であった。回転寿司である。回転を見張っていたら首が痛くなった。筋肉を休めるために反対側に首を回したら一組の家族がちょうど2歳くらいの女の子の口を母親がペーパータオルでわしゃわしゃと拭いていた。父親はキャップをかぶっていて若く見えた。下はハーフパンツだから実際に若い。私は昼間は半袖だったが朝晩は寒いので上着を羽織った。朝目が覚めてコタツがないからがっかりした。昨日子供が家庭訪問だったから片してしまったのだ。ここ数年家庭訪問がコタツを上げるタイミングとなっている。コタツがあれば100分で名著を見ながら寝てしまったかもしれない。寝たらまた体が動かなくなるのだ。それは夢だったがその恐怖はやわらがない。将来じっさいに寝たきりになってそれでも私は幸福をかんじることができるだろうか。