意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

夏至近し

明るい夕暮れに書いている。今が六時半だと言われても疑わないが五時半である。階下から家族の笑い声が聞こえる。どこかの録画番組を見ているのだろう。今日は父も母も休みであった。父とは私である。母は川越をぶらぶらし父は娘の学校へ行った。校門から校舎まで歩くとわきの下に汗をかいた。夏至が近いのである。


例えば自分が家族を持った場合に引き続き差別感情を抱かずに済ますことは難しいという記事を読んだ。取り上げられていたのは福島産の野菜で自分が食べるぶんにはなんとも思ってなくとも子供に食べさせるのには抵抗がある。私の場合は妻にしろ義父母にしろ差別感情の強い家に住んでいるので私自身の考えが問題になる場面はほとんどない。だから妻に対して「それは差別じゃないか」「古い考えではないか」と言っていれば済む楽な立場なのである。妻のほうはときには「時代が」「周囲が」と言うから何かにすがっているのはみんな同じなのである。差別をせずに生きるのはまず教養がないと難しい。教養があっても仕事とか目をそらす要素がたくさんあるからやはり難しい。自分に直接関係しないことを考えるのは至難の業である。今は会社のような場所でも「他人のせいにせず自分ごととして問題に取り組もう」なんて言うからそれさえこなせばOKみたいな風潮もある。


やはり私は何かを差別せずに生き続けるのは難しいと考える。ありのままに生きることが推奨される世の中で感情さえコントロールできればうまくいくというのは勘違いである。私はうすうすそう考えて生きてきた。それが他人の「私は絶対○○しない」とが「○○するなんて信じられない」という言葉を忌み嫌う理由であるとふと気づいた。絶対に起きないことや信じられないことは割とよく起こるのである。私が死ぬまでに誰かを殺す確率は極めて低いと予想するがそれでも殺人者の精神と私のそれは地続きなのである。


しかし忌み嫌う理由が理解できると今度は私のほうが融通のきかない狭量な人間のような気がし絶対なんて使う人間のほうが余程自然で人間らしいという気がしてきた。人生とは限りない許容の道である。あるいは理解すると許容するは案外意味の近い言葉なのである。