意味をあたえる

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浦島太郎について考えた

浦島太郎の話はなぜ不朽であるかを考えると浦島太郎じたいは何の落ち度もないのに最後老人になってしまうという理不尽さと噛み合わなさにあるのではないかと分析した。少し前に「○○のどこが面白いのかわからない」という言い回しが問題になっていたがこれは本質的にはわかるわからないの問題ではなく「○○程度で面白がる感性の未熟さ」「○○の面白さが理解できない自分の感性のするどさ」の表明に対する反論なのではないかと推測する。私の推測は少し極端なのかもしれないが私は今までさんざん「理解できない」とか「俺には無理だな」と私の行為に対して否定的な感情をぶつけられたから極端なのだ。そういうと「いや純粋に理解できないだけ」と返されるが純粋さとはそもそも不躾なのである。だから他意があろうがなかろうが他人の行為にはいちいち興味を示さないのがベターである。


そもそも「わからない」という感覚はそれは時間をおけば「面白い」に変化する可能性を含んでいるから決してマイナスな評価にならないはずなのである。しかしそれがいわゆる煽りのようになってしまうのはどこかで「わかっている」からである。何がわかっているのかと言うと「わざわざ見るまでもない」ことがである。確かにわかっているものはつまらない。例えばストーリーというものがあって割と理不尽な扱いを受ける主役がその回に限り何か明るいニュースに見まわれるとだいたいいいところでそれがひっくり返されたりするがつまり明るいニュースは暗示でそこで未来がわかるので私は主人公が不幸に見まわれることがあらかじめわかるから暗い気持ちになってもう話を進めたくなくなってしまう。もっとわかりやすく言うと死亡フラグが立つと気の毒で見ていられなくなるのである。


話は戻るが私が昔読んだ「センチメントの季節」という漫画があってそれの単行本の最初の話が「せんせい」というものでそれが若い男教師と女子高生が性行為をたくさん行うという話だった。もちろんそれは純愛であるのだが一方で男教師に恋愛感情を抱く冴えない女教師というのがいてあるときブラウスのボタンを外しながら男教師を誘うのだが「学校という場所で仮にも教師という立場でありながらなんてことをするんだ」と男は女教師を軽蔑する。自分は生徒と散々理科室で立ちバックとかしているのに。ところがそんな場面を女教師に見られてしまうのである。見られた男はヤケになって女子高生にプロポーズをするのだがあっさり断られてしまう。その後時間が流れて男教師は女教師と結婚する場面で話は終わる。女子高生は結局のところ男教師の教師のぶぶんを愛していただけで男の人格そのものには端から興味がなかったのである。


私は相対性理論というバンドの「地獄先生」という曲を聞く度にこの話を思い出すのだがこの前ふとこの「せんせい」は浦島太郎と似ているが浦島太郎よりもずっと理屈が通っているがために不朽の名作になり損ねたのではないかと思った。