意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

しゃもじ

朝奇妙なことがあった。炊けたばかりの炊飯器の側面にしゃもじがついてなかった。しゃもじがないことは特に奇妙なことではなく探したらあった。その後が奇妙だったがなんだか書くのが億劫になってきたのでここでやめておく。


1984年」を最近読んでいる。インターネットでよく名前を見る書籍なので興味を抱いた。まだ20%程度読んだところだが特におもしろくはない。最近の国会や政府の様子が「1984年」になってきているみたいな論調があるが確かにパラレルワールドでありながら「これは他人事ではない」と言われているような気がしてしょっちゅう「ほらここも」も言われているようで気が重くなる。そういえばこの前の「人生論ノート」では盛んに「今に通じる」みたいに言われていたがどうして人は読むもの読むもの今を生きる私たちにつながなければ気が済まないのか。良い読書の尺度として読む前と読んだ後にどれだけ自分が変われるかというのがあるがそんなにしょっちゅう変わっていたら疲れてしまう。ある程度生きてきたら自分の人生観なりがそう簡単に変わったりすることはないというからあるいは疲れるとこぼす私が変なのかもしれないが私だってそうそう変わったりはしないが書かれている側の隙あらば変えてやろうみたいな雰囲気が疲れるのである。もちろん何事もアンバイだがたまには気楽な読書もしたい。同時進行で読んでいる織田信長の家臣団の本はその点気楽だ。家臣団の本だから次から次ににょきにょきと人物名が列挙され「前述の○○とは縁戚にあたる」とか書かれると「知らんがな」となるがこれらの名前をすべて暗記しなくていいというのは爽快である。私が今十代でしかも受験を控えていたらもう気が気でなくなってぶん投げてしまうところだがもう試験も教養もないのだからそれをかんじられるだけで幸せである。