意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

理科

朝起きてふとベッドの脇を見ると「理科」と書かれた紙が置かれている。そこは子供が今日着る服の上においてあるから尚且つその子供とは小学生だから私は大して奇妙なこととは思わなかった。理科にかんする何か忘れてはならない事物があったのだろう。思えば私も少年時代「尿検査」と書きなぐった紙をドアに貼ったクチである。朝いちばんの尿をとらなければいけないから起きたときの流れで何も用意せずに用を足してしまうことを防ぐための措置であった。しかしそういう措置はしてもしなくとも同じだった気がする。そう思うのは私が生涯であまりメモをとらず手帳も持たず予定も書き込まずに過ごしてきたからだろう。書かなかったことで大きなトラブルを起こしたことはない。


同じように私はマニュアルというものを読んだり作成したりしたこともあまりなくゲームの説明書だのはきっちり読むのが好きだったがせいぜいそこまでが限界だった。初めてかその次くらいに持った携帯の説明書は読んだがとちゅうで挫折した気がする。しかし私の好き嫌いに関わらず私は今までの仕事で一度もマニュアルというものが用意されたことがなくだいたいどこへ行っても「見ておぼえろ」というスタンスだった。怖い先輩は「一度だけやってやるからそれでおぼえろ」と言った。やや優しい先輩は「時間がないからまた聞いてもいいからこれでおぼえて」と早口で説明した。確かに実際にやっているのを真似するのは仕事をおぼえるのに効率的だった。


年を重ねて教えることが多くなると自然と私も「見ておぼえて」というスタンスをとることが基本となったが見せたって誰もおぼえないことにやがて気づいた。相手も悪かったが私も過保護すぎるのかしらと最近思うようになった。自分が味わった嫌なことを相手にさせないようにしようと気遣うがそのせいで情報量が膨大になって「差し当たってじゃあどうするの?」みたいなかんじになってしてくる質問もてんで的外れだ。黙り込む人もいる。頭をぶつけなければダメなこともあるんだなと思うようになった。なんて不親切なんだなんて無能な人だ俺はこうはならないと思われるのは癪だがこのあたりが私の限界なのだろう。


最近になって書いて伝えるとだいぶ良いということに気づいた。他の部署の人がクイックマニュアルを作ってきたのでそれを渡したら放っといても仕事が回るようになった。稼いだ時間で新しいマニュアルをつくって私は満足した。そうしたら「マニュアルのせいでこの仕事が誰にでもできるようになってしまい自分が必要ないと言われているようにかんじた」という旨のこと言われ色々だなと思った。