意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

清々しい思い出

昨日の記事の終わりに「清々しい記憶についてはまだあるがあとで書くことにする」と記したがそれでは書こうと思うととたんに面倒くさくなる。何故なら全体像が見えているからである。締めには「先生も大変に満足らしい様子であった」とくるのが決まっていてそこにきちんと着地できるかハラハラしてしまう。私はそれでも記憶を改ざんすることについてはとくに抵抗もないから書きよいようにやれば良いのだがそうすると端折ったような書き方になってしまう。端折るのと改ざんするのは全く違うのである。思うに考え抜いたことを書くのはクリエイティブさに欠ける。考え抜いてしまったらそれ以降はすべて模写なのである。アウトプットと言えば聞こえは良いがそれは単なる作業である。


とにかく当時の松本先生は大変に美味しいオニギリを握る方であった。子供たちの食がいまいち進まないと職員室から塩を持ってきてオニギリをこさえるのである。味についてはまったくおぼえていないが男女問わず配膳台の前に長蛇の列ができるのが常であった。わかめご飯のときはわかめオニギリとなった。先生がご退職される日には他の学年の生徒もやってきて上級生たちは地べたに座って先生の話に耳を傾けた。私はやはり話の内容をまったくおぼえていなかった。振り返ってみるとこれまでの人生でおぼえていないことのほうが多い。