意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

趣味の話はつらい

一つの趣味でしか付き合えない男がウザい

趣味の定義によるが私はおよそ無趣味の人間で最近まではどうにかして趣味というものを自分の中に定着しようとしたが私は趣味をもつということに恐れを抱いているのではないかとすら思うようになった。およそ半年くらい前にはボルダリングをしたがスタッフや場所の雰囲気に嫌気がさして行くのをやめてしまったがそれをあるとき友達に話すと
「他のところに行かないの?」
と不思議そうにされ「行かない」と平然には答えたが内心は「はてな?」という気持ちになった。同時にどこか侮辱されたような屈辱を味わったような感情を抱いた。前述の「はてな?」はどうして自分の中に「別の場所をさがす」という選択肢がなかったのか。私は実のところ行かずに済む理由を探していただけなのかもしれない。侮辱されたようにかんじたのはそれを見透かされたようにかんじたからである。以来私は趣味というものに恐怖をおぼえるようになった。


趣味に限らずたとえば他人の親と子育ての話をするのも苦手だしあと同年代の人と「これ懐かしい」みたいな話も苦手だ。ラジオを聞きながら仕事をしていて自分が10代のころに流行った曲が流れると同僚ははしゃぐが私は実のところ半分もわからない。中高時代は米米CLUBばかり聞いていたから。しかし「知らない」と言うことができずに「忘れちゃったなあ」とごまかしたり場合によっては「うわぁ」と無理に懐かしがったりする。そういう心中の気の抜けないかんじが「うわぁ」である。どうして正直に生きられないのか。またどうしてそういう他人と距離をとらないのか。正直うんぬんはともかく距離をとらないのは私が孤独をちっとも愛さないからである。私は自分が話の主導権を握る限りなるべく今起きていることに対する話をする。過去の話もするがたいていは自分の失敗談である。