意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

差別がわからなくなった

話題のバラエティ番組についてとくに私が思うこともなく元の記事も読んだときには「ふうん」くらいにしか思わなかったが上記ツイートを目にしてこれは私が幾度か主張した「政治家の言う「未来の子供」は誰のことも指していない問題」と通じているのではないかと思った。大人は我慢しなきゃだけど子供は救ってという理屈はそれは例えば乗っていた船が沈没して板切れ一枚しかないから大人は遠慮しましょうみたいな場面なら通じるが長期的にどっしり構えて取り組んでいく問題では当時子供でもそのうち大人になるから結局のところいずれは大人になる人は大人の範疇とされて誰も救われないが言っているほうは救った気になってしまう。


しかも当の子供だって馬鹿じゃないんだから「大人が我慢しているのに子供が我慢しないわけにはいかない」くらいは考える。大人になったとき大部分は子供のときのことを忘れてしまうからつい子供を見くびってしまうから「とりあえずお菓子をあげとけばいい」みたいなことを言ってしまうが子供は私たちが思うよりも頭が良くて色んなものを見ている。だから私は傷つかないが傷つく人がいるから許せないみたいな。というか私なんかは傷ついている人がいると自分が傷つくよりも傷つくからそういう理屈のほうが通るのではないか。


というか私は差別というものがなんなのかわからなくなってしまったよ。偏見がなくなればいいのか。例えば私の職場に同性愛の人がいたとしたら私の中の正解は無関心でいることだと思っていた。しかし仕事で例えば恋愛にかんするアンケートをしますという類のものがあったときにはどうすればいいのか。私は正直に「わからないんですが」というのが正解だと思う。「木を見ず森を見る」というか。つまり不特定多数の大きな問題としての同性愛者に対しては考えるとしても一度知り合ってしまった個人には特に向こうから言い出すとか特殊な条件が揃わない限りは知らんぷりをするべきた。「色々大変だったんでしょう?」というのが一番愚である。私たちは当事者じゃないかぎりは素人だし寄り添おうとすることが肝要だというのもただの自己満足である。


私は比較的傷つきやすい性格で他人の顔色もうかがうしまたイジメられた過去もある。家族でテレビ番組を見ているとき私が食卓でいちばんテレビに近い席だったが私はしょっちゅう後ろを振り返って父や母が今のこの番組を楽しんでいるかをチェックしていた。しかし仮に楽しんでいないという反応であっても私が「じゃあ好きなの見なよ」と言ってもこの人たちは親権者で私を楽しませる義務のようなものを負っているからむしろ私が「最高に楽しんでいる」となるほうが正解のばあいもあった。そういう自己なので今でも集団で仕事をしていても若い人はどうしてもいじられやすくなるが過剰にいじる人というのがいてこの人はおそらく中学高校は野球部かサッカー部の多数にしか所属したことのない人で他人をいじることはあってもいじられた経験はほとんどないんだろうと思った。そう考えると私は子供のころイジメられたりまた入ったテニス部で私と同じ小学校出身の人が皆無で先輩から校歌を歌うことを強要されたときもひとりだからさすがに先輩たちのほうが気の毒がって仲間の私と同じ小学校出身の人をフォローにつけたらその人もいかにも頼りない虐げられた歴史の中で仕方なく道化を演じているようなかんじの人でみたいな経験があって良かったと思う。