意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自分が10代のころ聴いていた音楽が本当に曲が良くて好きだったかはあやしい

最近の音楽はクソだみたいな記事を読んでそういう考え方もありかもしれないと思ったが私はそこまで自信家にはなれない。クソだとまで言わせるなにかがあるのかという面もある。私も最近の曲にはついていけないと思うことはあるがそれは主として歌詞のぶぶんでやはり愛とか恋とかなんとかオブラブとか出てこられるとしんどい。歌われる愛とは主に入り口の愛である。別れの場面もやはり入り口というかさわりである。キスをしてセックスをして終わりの世界なのである。結婚をゴールインと言ってしまう世界である。一方私が住むのはその後の長い世界である。


私が十代のころはミスチルがわーっとなっていたころでミスチルのファンでなければ人に非ずみたいな雰囲気がありカラオケボックスがありそこでファンの人たちが「俺この曲ね」「じゃあ俺はこれ」みたいな会話をアハハオホホとやっていて心底気持ち悪いなと思った。チルドレンズワールドってなんだよとか思った。実はそこまで多数がミスチルファンではなくドリカム好きの人やグローブが好きな人やボウイが好きな人などそれぞれいたが結局声の大きい人の御用達の音楽がミスチルだったのである。私は昔からそうだけど年を取るとそういうのを俯瞰するようになっておそらく今でも声の大きい人やとにかく人と違っていたい人や兄や叔父の影響を強く受けた人や嫉妬深い人などそれぞれの音楽があると思われる。大人になってさんざんいい思いをしておいて音楽だけは当時のままというのは虫が良すぎる。クソとかんじるのはたぶん音楽のほうから見限られてしまったのだ。


音楽について考えると必ず何かが付随して純粋な音楽について述べるのは不可能に思える。やはり言葉はないほうがいい。メロディーは言葉よりかは抽象的だ。言葉があると言葉が支配するのはそれだけ具体的で力があるからだろう。オーディオマニアが「音楽が邪魔で音が聞こえない」と言ったという話を聞いたが音楽よりももっと抽象的な世界があるのだろう。せっかく大人になったのだからいつまでも子供相手のばかりにかかずらっても仕方ない。音楽にまで成果や目標みたいなのを持ち込まれてもうんざりするだけだ。