意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

なにを見ている?

みんなは町のどこを見てるの?

町中で何を見ているのか人の見ているものを知るのは楽しかった 私はよく店の中などで別行動をしている家族や知人を探すときはこんなにも人の顔や体が並ぶ中で知っているものを判別できるのは何故だろうと思ったりまた探していないときは毎日同じような風景を見ているのに記憶に残るパターンとそうでないパターンがあるのは何故だろうとか考えている つまり風景そのものを見ていないのだ あと更地になったところに元々何があったのかがわからなくなるのはなんでだろう 今日父と母と病院に向かう途中で父が更地を見て
「あそこは何があった?」
とつぶやいて私は比較的すらすらと「あそこは寿司屋だった」などと言えた 私たちは叔父の見舞いに行く途中だった 叔父は危篤といってもいい状態だった 私は病院の中で迷った 受付の態度が悪い 病室は個室でトイレがあってトイレのドアは2枚あった 私たちは比較的のんきな見舞い客だった 母が意識が混沌とする叔父に
「私たちと話したくないんですかー」
と声をかけていた 私も
「おーい」
なんて言っていた 私たちは別に不真面目なのではなく私たちには日常があったのである 日常は流れであり立ち止まっていられないのである という解釈が正しいのかはわからない しかしいかにも悲壮感を漂わすなんてそんなことができるはずがない 叔母は叔父にずっと付き添っていなければならないがそれでもなんとか飼い猫と戯れる時間はつくっていた 2人いる息子は2人とも仕事に行っている 休憩コーナーにはカレーが自動販売機で売っていてご飯とカレーが別々だった 受付の態度が悪く帰りに見舞いの人が首から下げる札を渡そうとするとひったくるように取られた