意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ぼくのかんがえた死について2018

生きている意味

生きる意味はないと考えるのが自然だと思っていてしかしあってもなくてもいいというのが私の最近の境地だ 上記の書いた人は他人に求めるフェーズだと思えば「いや意味なんてナンセンスですよ」と余計なことを言わずに済む それは時期的なものでやがて時が経てば違うという風になっていくのだろう そうやって何度目かの相対化を果たしていくうちに人は死ぬのである 私は上記の記事を読んでからむしろ死についてよく考えた だからやっぱり生きる意味があるならそれは死なのである 死ぬために生きているのである


父は死についてうまく考えられない人で私が未成年のころから死ぬのが怖いとは言わなかったが無になるのが信じられないみたいなことを言っていた この前叔父が死んだときにお経さんと飯を食っているときにまで
「死んだら無になるというのがどうこう」
と相談していた 私はそっと聞き耳を立てたがソノアトノ話がまったく記憶に残らなかったからお経さんもはぐらかすみたいな答え方をしたのだろう 父は死については素朴でありむしろ他の人よりかは死をとらえようとしているのかもしれない 他の人はもっと見ないようにしているのかもしれない


私は少し前から死んだらまた同じ人生が始まるんだと考えていてそれは同じ細胞だか染色体の配列がまったく同じならそれは自分だという考え方でワープの技術とはコピペと同じで遠方にコピーを作った後にここにあるのは削除することだというのをヒントにしている つまり完璧なコピーは「私」なのである 将来クローン人間というのができてその意識が他人と同じだったらクローンはつまりどこかが違っているということだ


同じ人生というのはつまりこれから先地球が終わって宇宙が終わったらまた宇宙が始まって地球ができて鎌倉幕府とかフランス革命を経てまた自分が生まれるからでしかし死んでいる間は時間は流れないからまた自分が生まれるまで一瞬なのである


おそらくこうだろうと考えているがこの考えを受け入れるためにはじゃあ生まれてすぐに親に殺される子供とか一生何かしらの痛みに悩まされる人は永久にそうなのかと言われると気の毒なので私はまだまだ修行が足りない