意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

過去はいつでも

糸井重里が「若いころにしなかったことについて40代を過ぎて請求書がくる」ということを言っていて腑に落ちずに考えていたんですが、結局それって「20代のころにしなければならない10のこと」の類の裏返しなのではないかと思いました。僕が若いころはそういう「しなければならない系」の本が流行っていてそういえば最近は見ませんがもうみんなやり尽くしちゃったからではないか。僕はどうしてしなければならないことが(しかも期限付きで)あるのか理解できなくて理解できないというのはつまり「到底できない」という思い込みとコンプレックスからきていて僕は自分に自信のもてない若者でした。だからそのコンプレックスを跳ね返すために僕は「「しなければならない」はすべて間違っている」と思うようにしてそういう決意が尾を引いてこの度の「40代の請求書」の違和感につながったのではないか。


そもそも決まった年齢、年代で同じイベントが起こるという発想がおかしくて例えば僕の甥はこの春から幼稚園に入ったのですが早生まれで自分の服のボタンを自分でとめることができない。それでも先生は手伝ってはくれないと甥は母親に訴え母親は先生に文句を言おうと思ったのですが、僕は「一方の言うことだけをとるのはフェアではない」と思った。また、自分の子だけできないのは口惜しいからと家で着衣の練習をすると語っていたので「慣れない環境で疲れているのだから、練習などせず、まずはわがままを聞いてあげなさい」と諭した。僕が諭したわけではないか。ここで言いたいのは人によってペースというものは違うということですよ。しかしわずか3年程度の人生の1年の差は大きくて30代40代と同列で語れないと反論されたらそれもそうだ。