意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

砲丸投げがしたい

体育苦手だったけど社会に出たら全く困らなかった

私も体育が苦手で高校時代はハンドスプリングかヘッドスプリングができないと補習というのがあって補習を受けたら練習したらできるようになって教師が「2!」と私を大声で評価した さらにハンドスプリングができれば3だったがずいぶん汗もかいたし満足もしたから2でいいやと思ったからそれで帰った 結局できなかった人は武道場を走らされていて私は走って済むんならそれでも良かったなと思った 子供のころは出来ないことを恐れつつそれでも強制する教師や大人を恨んだが大人になると「できません」という人の落としどころで手を焼く むしろこっちの苦悩を悟って舐めた態度をとっているようにすら見える 


引用の記事では役に立たなかったと書いてあるが私はやはり嫌な出来事が今の自分を構成していることを否定できないから率直に「体育あって良かったね」としか思えない それに過ぎ去ったことだからもうこだわる必要はないのである 役に立たないことは止めましょうが近代的合理主義というのならまず切り捨てるべきは過去である 昨日嫌だったことが今日も嫌かどうかは確率の問題だし単に嫌と思いたいだけかもしれない それがアイデンティティかもしれない 私は小学生のころは作文は苦手で宿題は母に書いてもらっていたクチだがそんなことをここ半年くらい忘れていた 覚えていたころは苦手な自分が書く文章がなんかブランディングされているような特別な感情を抱いたがようやくそれから解放されて「書くから書くんだよ」みたいな境地に近づいた


高校の体育で1回か2回だけ砲丸投げの授業の時があって私はボール投げが極めて苦手だったので砲丸投げも投げやりだったがあるとき自分の体重が砲丸に乗る感覚があって記録も伸びた しかしそれが最後の一投か二投だったのでそれ以来砲丸を持つことはないのでどこかで初心者でもカジュアルに砲丸が投げられる場所があればと思う 例えば数学とかは大人になってもすぐにできるのだが