意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章に気持ちは乗せられない

昨日あたりはひさしぶりに「書きたい」という気持ちになった いじめの、しかし本当は大人との断絶を書きたかった 自分がいじめを受けた当時から30年近くが経って親になって今子供がいじめを受けてどうしようとなってもきちんと対処できる自信がない ちょうど仕事が忙しいから仕事の誘惑に負けて仕事に逃げてしまうかもしれない とにかく仕事というのは手っ取り早く隠れ蓑になるからありがたい


もしかしたら私の親もそんなかんじだったのかもしれない 私の父は仕事人間だったので私の受けたいじめについてアドバイスはすれど行動にでるとは思わなかった だから大人になって母から「あなたの父親はあなたがいじめを受けた帰り道に後ろから車で様子をうかがっていた」という話を聞いて少し滑稽にかんじたそれが解決の糸口につながったのかは不明だ どちらかと言えば親としての役割を果たすために私の帰り道に立ち会っただけなのかもしれない とにかく役割を演じ続けなければ父親という立場はすぐに崩れ去ってしまうものだから 私も親となってそれはかんじた 意識的にふんばらないと親でいられないのである もちろんそれを子供がどう評価するのかはまた別の話なのだが 父親の威厳というのはとっくの昔に形骸化したし不完全な自分が上から物を言うなんてと思う それでも親であることを意識しないわけにはいかないのである


今日になってあるメールの返事がきた あるメールとは仕事でクレームを受け私が「気持ち」を込めて書いたメールである 書きながら「うまく書けないだろうな」と思ったがやはり打ち損じたような内容になった 逆なのである 気持ちがあって文章があるのではなく文章が気持ちをつくるのである 文章に込められるのは文字だけである もちろん感情や衝動がなければ踏み出せないがどこかで見放さないと的をはずすのである