意味をあたえる

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兎と亀(1)

昔に書いたものを読んでいたら思いのほか面白かったので掲載します 全7回

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兎は焦っていた。亀の要求の意図が理解できなかったからである。亀は薄ら笑いを浮かべながら「決闘」という言葉を口にした。

理解できないのは内容だった。足の早さを競おうというのである。陸上部がロードワークに使用している全長10キロのコースを、どちらが早く走れるのか競争する。高校を卒業して以来、まともに運動をしていない兎にとってみれば、結構な距離だ。走れない距離ではないが、かなりの体力を消費し翌日は筋肉痛になるだろう。だが、相手は亀だ。あんな愚鈍でまぬけで、醜い生物に負けるなんてありえない。おまけに甲羅まで背負っている。何かのハンデキャップなのだろうか。それに引き換え、兎の方は幼い頃から野山を駆け巡っている。地面を蹴り上げる後ろ足は、生まれつき太く、たくましい。昔ほど走らなくなった今でも、足の早さには自信がある。

だからこそ、亀の狙いが読めなかった。言わば、亀は100%負ける勝負を仕掛けてきたのである。兎が油断すれば勝てるとか、そういうレベルではない。スタートして、1分もすれば、200メートルは差がつくだろう。途中でスタバに寄ってお茶をするとか、明らかな手抜きをすれば、亀にも勝機はある。だが、そのような勝利に一体何の意味があるのだろう。確かに、勝負の結果としては勝ちだが、圧倒的な実力差は変わらない。手を抜いた兎は責められるだろうが、だからといって亀がすごい、という風にはならないはずだ。

となると、考えられるのは、無謀なことに挑む姿を周りに見せつけたいということだ。確かに負けるとわかっていながらも、ひたむきに練習に励む姿は、一部の人間の心を打つだろう。ざらざらしてひび割れた亀の顔が、汗と苦痛で歪むと、感動で泣いてしまう女子もいるかもしれない。こういう女は、亀にタオルを渡したり、ハチミツだか梅干しだかを入れた特製ドリンクを飲ませたりするのだ。元陸上部の男子は走る時のフォームを見てあげたり、タイムを測ってあげるのかもしれない。そうなると、兎は亀のこの茶番の演出のひとつということになる。だが、そんなことで稲子の気を引くことなんてできるのだろうか。

大学には3つ食堂があり、一番東側の食堂の上の階のラウンジがサークルの面々が集まる場所だった。階段を登ってすぐそばの長テーブルには、いつの時間も誰かしらいた。座り方にはルールがなかったが、大抵奥の方は古株が座っていた。その日も兎が二時間目の授業の前に顔を出すと、一番奥には部長がいて、携帯電話を耳に当て誰かと話をしていた。部長は大柄な男で、茶髪で肌も黒く焼いていた。そこからひとつ席を開け、女子が4人座り、その中に稲子がいた。稲子は兎と同じ二年生で、稲子以外は一年生だった。兎が声をかけると一年生は「おはようございます」と頭を下げ、さらにその中の一人が「今日は早いですね。授業あるんですか」と声をかけてきた。兎は適当に返事をして、部長の後ろを通り過ぎ、ラウンジの隅の自動販売機でコーヒーを買った。兎は敬語で話しかけられるのに慣れていなかった。確かに学年はひとつ上だったが、兎がサークルに入ったのはこの春からだった。そのため他の一年生と入ったのと同時期で、兎の中では同期という意識があった。それなのに、敬語で話されてしまっては、なんとなく距離を感じてしまう。まだ同学年のものとも親しくなってはいなかったので、サークル内でも孤立しがちであった。
「そういえば兎君、亀君と勝負するんだってね」
そう聞いてきたのは稲子だった。兎はまだすると決まったわけじゃないよ、と答えながら稲子の斜め前に腰かけた。コーヒーの入った紙コップを口に近づけると、音を立ててすすった。コーヒーが熱いからである。
「だけどさ、何考えてるんだろうね、亀のやつ。俺と競争したって仕方ないじゃん」
稲子はなんでだろうね、とおどけた。細い眉毛が上を向き、おでこに皺が寄る。黒い髪は後ろでまとめられ、少し痛んでいる。化粧は薄く、アイシャドウも塗られていないため、子どもっぽく見える。

それ以上話はふくらまず、やがて稲子は隣の女の子と話し始めた。女の子は今日中にレポートを提出しなければならないらしく、テーブルに突っ伏して、眠いーと声を上げた。稲子はもう少しじゃん、がんばんなよ、と励ましていた。来週から前期の試験が始まる。女の子の前にはいずれもノートや教科書が広げられていた。兎はコーヒーを飲み干すと、それじゃね、と立ち上がった。2時間目まではまだ時間があったが、授業が行なわれる6号館までは距離がある。ゆっくり歩けば丁度いい時間に着くはずだった。隣に座っていた女の子がいってらっしゃい、と声をかけた。稲子を見ると、兎が立ち上がった事に気付いていない様子だったが、歩き出そうとすると兎の方を見た。目が合うと、小さく手を振った。兎は横目で稲子を見ながら微笑んだ。

兎をサークルに誘ったのは稲子だった。兎と稲子は同じバイト先であるセブンイレブンで知り合った。セブンイレブンは大学から電車で20分くらい行った駅の東口にあった。一年生の春休みに、店頭に貼られたアルバイト募集のチラシを見た兎は、夕方の時間帯の希望で面接に臨んだ。オーナーからは、男は深夜をやってもらいたいんだよね、と言われた。とは言うものの、深夜のアルバイトの人数は足りているため、とりあえず夕方の時間に入ってもらって仕事を覚える、ということで取ってもらえた。

とりあえず来週の月曜の夕方5時に来てくれ、と言われ行ってみると、オーナーの奥さんがレジを打っており、その隣に女のアルバイトがひとりいた。奥さんは最初の30分で兎にレジの打ち方を教えると、その後はどこかに行ってしまった。仕方がないのでもうひとりのアルバイトにくっついて仕事を覚えなければならなかった。それが稲子だった。稲子は最初にお弁当の陳列を兎にやらせ、そのあとに商品の補充やフェイスアップを教えながら、全体的な流れを説明した。お客がくると2人でレジをしたが、あまり店内が混むことはなかった。兎が一万円札のおつりの札を数えるのに苦労していると、客がいなくなった後に稲子は大笑いした。もうちょっと早く数えられないと、お客さん並んじゃうよ、とレジから千円札の束を取り出すと、指の間に挟んで数えて見せた。細い指が機械的に動く。装飾品は何もなく、丸い爪にも何も塗られていなかった。稲子の手は全体的に小さく、子どものもののようだった。兎は前足が短かったので、札を数えられるようになるまでにだいぶ苦戦した。一枚めくろうとしても、どうしても次の一枚がくっついてくる。束を持っている手をスライドさせてうまくずらせばうまくいく、とアドバイスされたが、そうすると今度は束が乱れ、それを直すのにかえって時間がかかった。ある程度練習したところで、稲子は「まああとはやりながら覚えていくしかないね」と苦笑いした。それからレジで客が1万円札を出すたびに、稲子はおかしそうに兎を見守った。

それから兎はなるべく稲子と一緒に仕事をするようにした。稲子は毎週月曜と金曜にシフトに入っていたので、兎もそれに合わせてシフト希望を出すようにした。たまに、他のアルバイトと重なって一緒になれない時もあったが、大抵は同じ時間に仕事ができた。徐々に話をして打ち解けていくうちに、稲子が同い年で、しかも同じ大学に通っている事がわかった。学区の関係で、小、中学校は一緒ではなかったが、住んでいる場所もそれ程遠くはなかった。稲子の家は、兎の家の裏の国道を挟んだ向こう側の地区にあった。一本奥の道の駄菓子屋には、兎も小学校の頃よく行った。稲子にそのことを話すと、今は潰れちゃってもうないんだよ、と教えてくれた。店主の男がアル中で肝臓を悪くして死んだとのことだった。

兎が大学で何のクラブやサークルに所属していない事を知ると、稲子は自分のサークルに勧誘してきた。何のサークルなのかを聞くと、一応旅行のサークルだけど、ただ飲んでるだけ集まりなんだよね、と答えた。稲子に「お酒は嫌い?飲めない?」と聞かれると、兎は別に普通に飲めるよ、と答えた。酒は、高校時代の友人とたまに会ったとき飲むくらいだった。メニューを見ても何を頼んでいいのかわからず、兎は生ビールばかり飲んでいた。3,4杯飲むと頭が痛くなる。酔って気分が良くなるのは最初の一時間くらいだった。

兎は集団行動が苦手だったが、稲子がしつこく勧誘してくるので、ついにはサークルに入ることを承諾した。稲子は、これで兎君と飲めるね、とはしゃいだ。兎は、そんなに俺と飲みたいの?と聞くと、うん、と答えた。だって兎君おもしろいから、と稲子は言った。

それから2週間後の土曜日に、サークルの飲み会があり、そこで兎はメンバーに紹介された。乾杯の前に部長から加入用紙を渡され、そこに連絡先と名前を書いた。書いた内容を確認した後、部長は「友達とかいたらもっと紹介してね」と言った。

稲子は兎の隣に座り、モスコミュールを立て続けに3杯飲んだ。細長いグラスの先にはライムがついていて、稲子は律儀にそれを絞って飲んだ。稲子はいつもよりゆっくりとした口調で、兎君て彼女とかいるの?と聞いてきた。兔はいないと答えた。稲子はふうん、と興味なさそうに応えた。兎は、稲子さんはいるの?と聞き返そうと思ったが、その勇気が出なかった。周りを見回すと、男は10人くらいいて、どれもみんなお洒落な格好をしていた。兎は自分だけが垢抜けていない気がした。

そのうち奥の方から男の声で「稲子、ちょっとこい」と聞こえてきた。稲子ははいはいはい、と言いながら兎の隣を離れた。兎は話し相手がいなくなり、仕方なくビールをちびちび飲んだ。正面の席の男女は何かをこそこそ話していた。稲子がいた席の反対側の男はすでに酔いつぶれていた。全体的に話し声が大きくなり、いろんな声が混じって聞こえた。兎は時計を見て、いつ会が終わるのかを考えた。あと30分もすれば帰れるのだろうか。

気がつくと稲子が座っていた席に男が座っていた。男は煙草を吸いながら膝を立ててで座り、兎が見ると、ども、と挨拶をした。橘と名乗り、学年は兎と一緒だった。橘は目は細く、髪にはパーマを当てている。しばらく雑談をした後で、橘は兎に「で、兎さんは稲子とはもうやったの?」と聞いてきた。

兎が意味がわからず、橘の顔を見ていると、橘は、あれ?知らないの?と兎の顔を覗き込んだ。右手に挟んだ煙草の先から、煙が無防備に立ち上っている。
「稲子はサセコなんだよ。死ぬほどセックスが好きで、誰とでもするの」

〈続く〉