意味をあたえる

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兎と亀(7)

結局それ程眠れなかった。気がつくと、窓から朝日が差し込んできていたが、起きている者はまだ誰もいない。そこかしこから寝息といびきが聞こえ、煙草と酒と、何かのつまみの脂っこい匂いが鼻をついた。だが、それでも朝は爽やかだった。横に転がった白ワインの瓶が、テーブルの上に縦長で、半透明の影を映し出している。

歯も磨かなかったため、口の中がぬるぬるして気持ち悪かった。喉も乾いている。そういえば頭も痛い気がする。こめかみの辺りを締め付けられているような窮屈さを感じる。痛みの原因を探る。酒だけではない。何か頭の隅にとっかかりがある。それをいじくり回しているうちに、徐々に兎の頭が動き出した。寝る前までの思考のセーブデータが復活し、脳細胞のひとつひとつが役割を与えられ、動き始める。稲子の事を考えていた。稲子は成藤と出ていった。時間を測っていた。時間の経過における、セックスの可能性を検証していた。セックスの一回の時間を20分と仮定する。一回の定義は、キスから稲子がブラジャーのホックを止めるところまでだ。そこまで持っていくトークの時間は15分と見ればいいだろう。短いような気もするが、成藤の目的ははっきりしているし、稲子もサセコなんだから、それ程喋らなくても同意に至るはずだ。後は車を運転する時間とその他もろもろを合わせて40分くらいだろうか。つまり、1時間15分経っても戻って来なかったら2人は事に及んだということだ。

2人は午前0時過ぎに出て行き、帰ったときは3時近かった。つまり、兎の定義によれば、2回はしたことになる。いや、2回目以降は移動時間や、服を脱がす時間を考慮しなくていいから、3回くらいしててもおかしくない。馬鹿馬鹿しい。1回やったら、2回でも3回でも同じことことだ。

そんなわけで、最初の1時間くらいまではハラハラしつつも、希望を抱き、アイスおごってもらっちゃった、と得意顔で戻ってくる稲子の姿を待ち望んだ。気がつくと隣に部長が来ていて、盛んに話しかけてきていた。手に持ったプラスチック製のコップには焼酎の水割りが注がれており、気がつくと兎にも同じものを作ってくれた。居酒屋でバイトしていたことがあると言いながら、焼酎と水の割合について熱心に説明してくれた。コップの下三分の一を指差し、ここまで焼酎を入れるのがベスト、と言っていたが、いざ自分のを作る時は、そこをゆうに超えている。それを見た途端に自分の水割りも異常に酒が濃いように感じ、それ以上飲もうという気がなくなった。

部長はもしかしたら、目の前で稲子を連れ去られた自分を慰めようとしてるのかもしれない。だが、それでも隣で喋られるのはうっとおしかった。誰にも邪魔されず、稲子と成藤のセックスの可能性について、集中して考えたい。ただでさえ、酒が回っているのだから、そもそも人の話なんて頭に入らない。適当に相槌を打って、たまに、え、本当ですか?と意外そうな顔をして見せた。話がひと区切りしたと判断すると、なるほどー、とか難しいですねぇを連発し、腕組みをして話を咀嚼してるふりをした。もちろんそんなわざとらしい態度が相手にバレないはずがない。しかし相手も酔っ払いなんだから、いちいち気にするわけがない。赤い顔をした部長は、茶髪を手で撫でながら、日焼けサロンの一回の料金を教えてくれた。どうでもいい。

そのうちに問題の1時間15分が過ぎた。5分くらい前に携帯の画面を見て、これは過ぎちまうだろうな、と考えていたら本当に過ぎた。稲子と成藤はセックスをした。ただ、これはあくまで兎が定義した時間である。この時間を過ぎたからといって、必ずしも行為に及んだとは限らない。というわけで、自分が定めた1時間15分再検討してみた。妥当である。というか自分で考え抜いて割り出した時間なのだから、妥当も何もない。その後今度は、これだけの時間で逆にセックスに及ばないストーリーを考えてみた。例えば、成藤はどうにか稲子の服を脱がせようとするものの、稲子はそれをかたくなに拒否し、ついには成藤を殴り倒す、みたいな。なぜ稲子が拒否するのかと言うと、それは兎がいるせいだ。亀によれば稲子は兎に告白をしたがっている。つまり好きな男がいるのに、みすみす別の男とするのかという問題である。そう考えると、気持ちが少し楽になった。が、すぐに亀の言うことを素直に信じていいのだろうかという疑問が頭をもたげる。

午前2時を回ると、周りに飲んでる者はほとんどいなくなった。女の子は皆2階に引き上げ、部屋の明かりも奥の半分だけとなり、兎の手元が一気に暗くなった。消される時に、許可を求める声が聞こえたが、泥酔してるふりをして無視した。いよいよ、成藤の前で足を広げる稲子の姿が頭から離れなくなった。暗くなった分、思考がずんずん深くなる。部長も部屋の端へ行って、自分のカバンを枕にして寝てしまった。いなくなると、ひどく心細く感じる。中華料理屋のバイト勢力図についてもっと話を聞きたかった。

ひとりになった兎はとりあえず水割りをつくった。部長の忠告を無視して、焼酎をほとんど入れなかったら、水道水のような味がした。二口飲んで嫌になり、テーブルを離れて壁にもたれかかった。眠気は全くない。もはや成藤と稲子はすでに事を済ませたと考える方が自然だった。酒と時間と密閉空間、と条件が揃ってるんだから、むしろ何もなかった方が異常事態である。交通事故とか熊に襲われたとか暴走族に絡まれたとか、そんな災難に見舞われるくらいだったら、セックスで済んで良かったと思うべきだ。そんな風に兎の思考はショックを和らげる為の自己防衛に流れた。それに飽きてくると、なぜ稲子はサセコになったのかという考えを巡らせ始めた。今まで何度も考えたことだ。稲子がセックスに溺れるのは男性不信のためなんだろうか。過去に酷い振られ方をしたのかもしれない。男は所詮女の体が目当てで、やらせさえすればあとはどうでもいいと思ってるのかもしれない。恋とか愛とか、そんな曖昧なものよりも、体が感じる快感の方がはるかにリアルと感じるのかもしれない。

だとしたら、稲子が兎に好意を持つというのは、どういうことなのか。それは即ち兎とセックスがしたいという事なんだろうか。人間との姦淫には飽きてきたので、獣姦にステップアップしようという腹づもりなのだろうか。ここまで考えたところで、兎はテーブルから水割りを取ってきて、ごくりと音を立てて飲んだ。 プラスチックのコップはやわで、少しでも力をいれるとその部分がへこみ、中身があふれてしまう。いつのまにか起きている者は誰もいなくなり、明かりも全て消されていた。兎は慎重にコップを床に置いた。暗いせいか、コップが傾いているのかどうかが、なかなかわからない。兎はひとつひとつの動作に集中した。思考を寸断させたかったからだ。

コップを無事に置くと、気を取り直して、今度は稲子とバイトしている時のことを思い出した。稲子は兎と同い年だが、バイトに関しては先輩のため、今でも兎に対して姉のように振る舞う。それは仕事に限らず、飲みに行くのも、同じ授業でどこの席に座るのかも、帰りの電車の何両目に乗るのかでもそうだった。近頃は電話をしてくる回数も増えた。兎の方がもっと積極的になっても良かったが、一方でそんな関係が心地よかった。
兎が好きなのは、バイトで仕事がひと段落した後の休憩だった。わずか数時間のバイトなので、正式な休憩時間があるわけではない。客が来ない隙を狙って、2人でバックヤードに引っ込んで勝手に休んでいるのだ。そこにはロッカーや店頭に並べきれない商品やシフト表やタイムカードがごちゃごちゃと並べられ、ただでさえ狭い室内が、さらに窮屈に感じられた。そんな雰囲気のせいなのか、そこでおしゃべりをしていると、いつも以上に親近感が湧く。モニターに映し出された防犯カメラの映像を眺めながら、廃棄のパンやおにぎりをかじる。稲子は太るから、と言って大抵ひと口かじると兎に残りを押し付ける。兎はこれは好みじゃないとか文句を言いながらも、結局は引き受ける羽目になる。稲子は間接キスとかそういうことは一切気にしない。悪乗りして、食べかけのコッペパンを口に押し込んできたこともあった。稲子の手が近づき、香水の匂いがした。稲子は制服がまるで似合わない。濃い色のジーンズを履いて、バランスを取ろうとしているが、顔が地味なせいなのか、上着の赤が完全に浮いてしまっている。そのうちいつのまにか客が来ていて、カウンターの奥を覗きながら声をかけてくる。稲子は決まって「私が行くから」と言って兎を残し、レジへかけて行った。


再び眠ることを試みたがうまくいかなかったため、兎は外へ出てみることにした。思った通り森の朝はみずみずしく、全体的に白がかり、何かをリセットするには都合がいいように思われた。スニーカーの底に触れる砂利の感触が心地よかった。2日前のバーベキューの時、火を起こすのに使用したうちわが落ちていた。ビールの写真が載っていて、何かの販促物のようだったが、紙の部分がふやけて文字は全く読めなかった。兎はわざとそのうちわを踏みつけた。心地いい。調子に乗ってそれを地面に擦り付け、そこから発せられる音、みるみる汚れていく表面を楽しんだ。まあいいじゃないか、と思った。稲子がサセコでもなんでも、亀との決闘がどうなっても、俺は俺なんだし。無理して笑顔をつくろうと口角に力を入れると、そこに稲子がいた。
稲子はコテージの庭と森の境界線くらいにある、一本の木によりかかっていた。ひょろりと細い木で、高いところいついた葉のあいだを抜けてきた光が、表面を斑にしていた。稲子も頭頂部と腹の辺りが金色になっていた。風景に溶け込んでいるように見えたが、グレーのTシャツに白いロングスカート姿だったのでそんなわけはない。起きているのが自分だけと思い込み、稲子の存在を見過ごしたのだ。稲子は顔をこちらに向け、様子を伺っている。かなり早い段階で兎の存在に気づき、ずっと見ていたに違いない。兎と目が合うと、平然と「おはよう」と挨拶してきた。うちわを楽しそうに踏んづけている姿を見られた兎は、わざと寝起きっぽい声で挨拶を返した。稲子は格好こそ昨日と違っていたが、化粧はしていなかった。そのため、いつもよりも幼い顔つきになっていた。稲子は寝ていないのだろうか。外見からは判断できない。いつも通りに見えるが、いつもと違っても見える。

稲子は、バイト先にお土産買わなきゃね、なんて話し始めた。兎は適当に相槌を打った。何故このシチュエーションでそんな話をしなければならないのか理解できない。大して仲の良くない他のバイトに、土産を買う義理はないし、オーナーは酒以外は喜ばないだろう。話すことが無いので、無理に話題を作っている。稲子も話に身が入っていないのが明らかだった。眩しそうに兎の事を見ている。とは言うものの稲子は話をするのを止めず、今回の旅行はどうだったかなんて聞いてくるので、兎は稲子にキスをした。兎の顔が10センチくらいのところまでくると、稲子はようやく話を止め、目をつぶった。稲子の唇は少しだけ開いていた。兎も目をつぶり、このまま抱き寄せようか迷ったが、そのままにしておいた。唇を離すと稲子はゆっくりと目を開け、しばらく目を伏せ余韻に浸っていた。左の頬を人差し指でかいたり、木の根っこに靴をこすりつけたりした。やがて照れくさそうに笑い「こんな女でもいいの?」と聞いてきた。稲子の言う「こんな」はもちろん誰とでも寝る事を指すとともに、昨晩の成藤との行為を肯定していた。心臓が握りしめられるような感覚を覚えながらも、兎は、うん、と返事をした。それから「付き合って欲しい」と言った。

稲子は黙って兎の手を取り「じゃあ亀君との勝負に絶対に勝ってね」と言った。ここまで来て勝負も何もあったもんじゃないと思い、そんなの関係ないだろ、と言った。「でもこれは亀君との約束でもあるし、一種の儀式のようなものだと思って欲しいんだ」そう言うと、稲子は兎を残して部屋へ戻っていった。


旅行から帰ると、稲子はあまりバイトに入らなくなった。お盆で親戚が集まるからと言って一度休むと、そのままずるずる何日か休んだ。兎もあえて連絡しようとは思わなかった。そのまま夏休みは誰とも会わずに過ごした。当然亀からも何の連絡もなかった。


亀との決闘は予定通り、夏休みの明けた10月の最初の土曜日に行われた。昼食の後に、陸上部のグラウンドまでだらだらと歩き、トラックの隅に線を引いてスタートの位置を決めた。すぐそばで陸上部は練習していて、明らかに迷惑そうな視線を兎たちに向けた。集まったのは20人くらいで根田や日野の姿もあった。当然稲子もいる。部長が場を取り仕切り、簡単なルールの説明をした。

スタートの直前になり、亀は兎に近づくと「ところで兎さん、この勝負は結局どうするんですか?」と聞いてきた。兎が無視をしていると、亀はかさかさの唇を緩めながらしゃべり続けた。

「兎さん、このまま行ったら当然兎さんが勝ちますけど、本当に稲子さんと付き合うんですか?稲子さんから見たら、僕もあなたも世の中全ての男も、みんな同じですよ。当然稲子さんと付き合ったらエッチするんですよね?そうしたら、あなたという存在は、あなたと他の男を区別する手がかりは、稲子さんの中で全部消滅してしまうんですよ。あの女は僕らのような獣と付き合えば変われると信じているようですが、それは違いますよ。それは勘違いです。あの女は逃げているだけです。あの女は愚かなんです。さあ兎さん、どうします?僕に勝ちをくれますか?僕としてはどっちでもいいんですよ。あなたが勝っても、いつかあなたは稲子さんを捨てるでしょう。僕はひたすら待つだけですから、、、」

亀がここまで言い終えたところで、スタートの笛が鳴った。部長がドンキホーテで買ったと昼に自慢していた笛だ。スタートした途端、亀は顔を苦痛に顔を歪め、重い足取りでゆっくりと前に踏み出した。早速誰かが、亀がんばれー、と声援を送った。

兎は亀の言葉についてじっくり考えたかった。稲子が逃げている対象を見つけてやりたい。見つけて、それを教えて、二人で乗り越えたい。校外に出て、500メートル位行けば、スタバがある。とりあえずそこまで行ってコーヒーでも飲みながら、この勝負について考えよう。亀は勝っても負けても同じだと言った。それは亀の心理作戦に決まってる。今まで散々惑わせてきた、亀の得意の戦法だ。最後までコケにされてたまるか。どうにか亀にひと泡吹かせたい。でも結局亀は、何がしたいのだろう。ここまでくると稲子の考えも理解できない。亀と稲子がグルという可能性もある。稲子は逃げている。兎も亀から逃げている。亀の視界の中で、兎はどんどん小さくなっていく。<了>