意味をあたえる

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青年海外協力隊家庭科室ドブ川横沢(1)

私が朝起きると、D氏からメールが届いていており、それは決してD氏が明け方に送ってきたメールというわけではなく、おそらく夜中に送ってきたものである。あるいは、日付が変わる前にすでに届いていたのかもしれない。私は、昨夜は23時くらいには、おそらく、寝た。本当はもっと起きているつもりもあったが、本でも読んでいれば自然と眠くなるから、そうなると時計を見ている余裕もない。今は橘玲という人の本を読んでいて、そこには簡単な数式も出ているから、寝る前に読むのには相応しい。

ところで、数式、についてであるが、そこに利子率から適正株価を割り出す数式が紹介されていた。もちろんこれは正確でないというか大雑把な説明で、私は株価とかあまり興味がないので、この程度にしか本の内容を書くことができない。それで、式だけれども、最初は分数を分数で割る、というところからスタートをしていて、分数とは横棒を使って表現するけれど、その横棒は3本もあった。数学がてんで駄目な人ならここでお手上げだろうが、私は中学のときに分数を分数で割るというのは習っていた。その数学教師は、ヤクザにとても縁のある教師で、その人は実際にはヤクザではないものの、配偶者の叔父がヤクザで、
「何か困ったことがあれば相談してくれ」
と、結婚当初に言われた。月日は流れてその夫婦には子供ができなかった。あるとき住宅展示場へ家を見に行ったとき、とりあえず子供はまだ後回しにして、先に家を購入するのもありだな、ということになって、しかしその展示場には駐車場がなかったので、月極駐車場の前に車を停めた。あまり長い時間は見ないつもりだった。月極駐車場は、車がほとんど停まっていなかったので、さらにその日は平日ではなく日曜だったので、 平日ならいっぱいだろうが、日曜はみんな休みだから空いているのだろう、と教師は推測をして停めたのである。教師は楽天的な性格だった。
ところが、住宅展示場をひと通り見て帰ろうとすると、横付けされた教師の車の後ろにぴったりとトヨタセルシオがくっついていて、セルシオの運転手は、教師が車の所有者だと認めると、眉間にシワを寄せ、露骨に睨みつけてきた。眉間には教師が戻って来る前からシワは寄っていた。あるいは常日頃から寄っているのかもしれない。教師はひと目でその男がヤクザであると見抜き、しかし見抜いたことを悟られたら、なお厄介なことになりそうなので、教師は車の鍵をわざと人差し指でくるくる回しながら、小声で
「すんません」
と言いながら笑顔を浮かべ、すばやく車に乗り込んだ。車の鍵にはドナルドダックのキーホルダーがくっついていた。教師が鍵をくるくる回したのは、ドナルドダックを見せつける狙いもあった。ドナルドダックのような男だと思ってくれれば幸いだからである。
教師が車を発進させると、セルシオは不機嫌そうなエンジン音を立て、タイヤを擦り付けるようなコーナリングで駐車場に頭から突っ込んでいった。5台ほどしか停められない狭い駐車場で、地面も砂利であった。コーナリングの際にタイヤは小石をいくつか跳ね、それがセルシオのボディの裏にあたった。南米地方の打楽器のような音が鳴った。南米地方では、日本では古くなって乗り捨てられたような車が、たとえ走行距離が10万キロを超えていようとも、全く問題なく道を走っていると聞く。さらには電車の車両なんかも中東の方では走っているらしく、しかし運転席は金網でぐるぐると巻かれ、なぜそんなことをするのかと言うと、外から石を投げられるからだそうだ。

月極駐車場がヤクザの所有物だということを、教師は、後になって妻に聞いた。そのときに妻の叔父がヤクザであることを思い出し、叔父はぱっと見ではとてもヤクザには見えず、白いセーターを着ていた。白いセーターなら流血した際に血が目立って仕方ないが、それでも着ているということは、それなりの立場の人ということになる。結婚の報告をする際に、夫婦で叔父の家を訪れたのだが、その家は酒屋の向かいにあって、酒屋の隣には小さな公園があった。公園は滑り台と鉄棒があって、鉄棒の足元に砂場が敷かれているがどれも簡素なもので、これでは小学生の子供ではすぐに飽きてしまうな、と田沼は思った。田沼とは教師の名前である。田沼はそのころから教師であったから、子供の立場でものを見ることができたのである。ヤクザの叔父は白いセーターで白髪で、M字ハゲで腹が出ていた。猫を飼っていた。猫は真っ黒であり、窓際の観葉植物のでかい鉢の影に隠れて、最後まで出てこなかった。

妻の話によると、その駐車場は叔父の組の所有物だった。田沼はそれならあんな風におどけながらどかす必要はなかったと、後悔をした。車も駐車場のはたではなく、中に停めてしまえば良かったと思った。
という話を、私は授業の合間に聞いた。授業のテーマは方程式であり、私たちはワークの文章問題を解いていた。ある兄弟が家を出て、兄が忘れ物をして1度家に帰ってから再度自転車で出発し、どこで出会うかという問題だった。黒板には「は、じ、き」と書かれた公式が書かれており、これは若い人は知らないと思うが「速さ、時間、距離」を表していた。しかし私はこの公式を見るとかえって混乱をするので、違うことを考えていた。私はいつも父の車の速度計を思い出していた。父はそのとき白いトヨタのセダンを乗っており、その車は時速100キロか110キロを超えるとチャイムが鳴った。私はそれが面白かったので、鳴らなくなると、もっとスピードを出すよう父にせがんだ。私はそのときは結構幼かったのである。私たちは、関越自動車道を走っていて、車は練馬区にある祖父母の家に向かっていた。トンネルが2つあり、2つ目を過ぎるとやがて料金所がやってきて高速は終わるが、しばらくは速いスピードで走れた。祖父母は私が20歳を過ぎてから死んだので、田沼の話を聞いているときは、祖父母はまだ生きていた。冬休みには、また父の車で練馬まで行く予定だった。今は2学期だった。そのときの父の車は、もうチャイムは鳴らなかったが、相変わらず白いセダンで車内はタバコ臭かった。田沼は実は教員免許を所持しておらず、しかし昔は今ほどうるさくはなかったので、田沼は授業の合間に自分からその話を切り出した。
「俺は臨時のピンチヒッターだから」
と田沼は言った。田沼は阪神ファンだった。
田沼がやってきたのは、中1の2学期からだった。1学期に数学を教えていたのは下条という男だった。下条は夏休みになるとすぐに青年海外協力隊に応募し、あるいはそれ以前に応募していたのが通ったのか、アフリカのザイールという国に派遣されることが決定し、学校を去った。私たちは何も知らずに9月1日にたくさんの宿題を下げて登校すると、体育館で校長から下条が青年海外協力隊へ行ったことを教えられた。体育館のなかは大変蒸し暑く、校長の口から「アフリカ」という単語が出て来ると、尚暑い気がした。倒れている女子生徒も何人かいて、保健室へ運ばれた。そして代わりにやってきたのが田沼だった。