意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

十字路(19)

それから4日後の授業の時、ミキちゃんに髪留めを渡した。こちらから何かをいう前に「行ったんだ、デート?」とはしゃぎ声を上げた。私は家族旅行と嘘をつこうと思っていたが、ばればれだし現にこうして見破られてしまったので、素直に認めることにした。「どこに行ったの?」から始まり食事や買い物や天気に至るまでこと細かく訊かれたが、私はできるだけ素っ気なく答えた。予想通りミキちゃんは羨ましがって「私も連れてってもらいたい」と言った。そんな時にどうやって答えればいいのか、予想していたくせに、うまく返すことができない。そのうちいい人できるよ、なんて古臭くて無責任すぎるし、面倒なのでいっそ「じゃあ連れてってやるよ、来週」とか言いたくなるが、そんなの問題だらけだし、それで何が解決するわけでもない。よって現実味ゼロだ。
でもまあなにしろ遠いよ海は。そういう空白を埋めるためだけの言葉を吐いて、そろそろ授業再開と思ったところで、ミキちゃんが急に改まって「遠いよね。海」とつぶやいた。机に肘をついて、前髪をいじっている。何か言いたいことでもあるのかと思って、黙って次の言葉を待っていると「うちの妹、見たことないんだよね、海」と大人びた顔をして続けた。
「家族旅行とか行かないの?」とか聞こうと思ったが、それはしてもいい質問なのか迷ったのでやめておいた。ていうか、一般の自閉症の子どもは、旅行へも連れてってもらえないのだろうか。私が何も言わないので、ミキちゃんは一瞬口許を緩めた。
「いつもそうなんだ。去年の旅行の時も、キョウちゃんだけ、おばあちゃんに預けて。キョウちゃんは病気だから、なんて言うけどそんなの嘘だ。本当は他の人にキョウちゃん見られるのが恥ずかしいんだ。うちのお父さんとお母さん、本当最低なんだ」
最低、の部分に力をこめてミキちゃんは言い切った。そして椅子の背もたれに寄りかかり、顎を引いてじっとしていたが、そのうちにバッグからもこもことしたハンカチを取り出し、それを目に当てた。嗚咽は全く聞こえない。ただ、傷口をふさぐみたいに、目頭を押さえているだけだ。
どんな言葉をかけていいのか、それとも何も言わないでおくべきなのか、こんな場面を兼山や他の講師や笠奈に見られたら厄介だなという下衆な考えが頭の中で渦巻き、仕方なくミキちゃんのいつもの黄色いシャーペンを眺めていた。シャーペンは角ばったデザインで、持ち手の部分は少し黒ずんでいる。クリップの銀色も薄汚れて見えるが、これは元々のデザインなのかもしれない。ミキちゃんはいつもこのシャーペンを使っていて、この物語でも幾度となく登場した。ひょっとしたら、このシャーペンこそがミキちゃんそのもので、もしかしたら何かしらのメッセージを含んでいるのかもしれない。

やがてミキちゃんは、小さな声で謝った。涙声ではなかった。ハンカチをどけると、目は赤いが、泣いていたようには見えない。私は参考書を閉じて、ミキちゃんと同じように椅子にもたれかかり、目を閉じた。
「いつかさ、ミキちゃんが連れてってあげるといいよ。海でもどこでも。きっと喜ぶと思うよ」
「そうだね。わたしもそう思うよ。そうしてあげたら素敵だと思う。でも、わたしはあの人たちの子どもだから。いつか同じような人間になってしまう気がするんだ。それがいやだ。怖い」
そんなことないから、と即答しながら、どうしてこんな風にマイナス方向に考えるのか、私には理解できなかった。思春期だからなのか。ミキちゃんは再びハンカチで目頭を押さえて、全く声を上げずに泣いている。ひょっとしたら、家でもこんな風に泣いているのかもしれない。何か良くないことが、立て続けにこの子に起きているんじゃないだろうか。
結局その後はまともな授業にならなかった。ミキちゃんは「すっきりした」と言って、元通りになったことをアピールしたが、xの代入を何度も間違えた。私はそれに容赦なくバツをつけ類似問題を宿題に追加し、極力いつものように振舞った。
別れ際、途中まで一緒に歩くことを提案したが、見たいテレビがあると断られてしまった。私はさっきの事について、改めて何かアドバイス的文句を考えたが、何を言っても的外れな気がして「じゃあ、来週ね」といつもと変わらない挨拶をした。
ミキちゃんはカゴに荷物を放りながら、返事をし、自転車にまたがった。
雨は降っていなかったが、歩道には所々に水たまりがあり、ミキちゃんはそれをうまく避けながら進み、やがて闇に消えた。来週には梅雨が明けると、天気予報が言っていた。

ミキちゃんが死んだのは夏休みに入ってすぐで、夏期講習のカリキュラムが組まれた直後だった。講習は理科と社会がなかったので、私は担当を外され、笠奈が3教科を見ることになった。笠奈が前期試験に追われていたため、引き継ぎは電話で簡単に済ませた。結局お台場以来、まともに会ってもいなかったので、講習が終わったら海へ行こうと約束をした。笠奈が新しい水着が欲しがったので、選んであげると言うと「君はセンスゼロだから遠慮しとく」と笑われた。
ミキちゃんとの最後の授業は、そんな浮き足立った気持ちを悟られないよう、極力感情を抑えて行った。その2日後に笠奈の授業があって、その週の土曜日の早朝に、ミキちゃんは自室で首を吊った。特に遺書などはなかった。その事を兼山から電話で聞いた時、すぐに自閉症の妹の事を思い出し、それから授業中に声を出さずに泣いた場面を思い出した。妹のことが、少なくとも原因のひとつであるのは間違いないだろう。自分でもわかるくらい血の気が引いてるくせに、冷静に原因を探ろうとするのが奇妙だった。そして「受験のストレスなんだろうな」とわざとらしく暗い声を出す兼山を心の中で嘲笑った。所詮お前程度の人間は、そのくらいにしか考えられないのだろう。私は優越感すら覚えていた。だが、もし私の方が彼女の本心を知っていたのだとしたら、手を差し伸べるべき人間は私で、結局のところ自分がそれを怠ったから彼女は死んだのだ、とまるで私がミキちゃんを殺したような気がしてきた。兼山の電話を切った後、私は胃の中のものを全て吐き出した。
通夜は葬儀場の都合と、友引を挟む関係で3日後に行われるとの事だった。塾からは、兼山と笠奈と私が参列する。気分が落ち着いてから笠奈に電話をして、とりあえず当日は4時半に迎えに行くと言った。笠奈は思ったよりも冷静で、実感がない、とコメントした。
笠奈はミキちゃんの妹の件は知っていたのだろうか。付き合い出してからミキちゃんの話はしなくなったので、かつてそんな話をしたことがあったのか思い出せない。本当は「俺が殺したのかもしれない」と弱音を吐きたかったが「受験ノイローゼだったのかな」と適当な事を言って誤魔化した。笠奈は「ていうか、意味わかんないんだけど」と私を責めるような口調で言った。私に問いかけているのではないのはわかっていたが、私はなんとか笠奈の納得する意味を作り出そうとしたが、無駄な行為だった。

駐車場係の誘導に従って車を停め、そこから斎場まで5分くらい歩いたが、着く頃にはかなりの汗をかいていた。入り口の脇に喫煙コーナーがあり、そこで兼山を見つけた。上着とセカンドバックを左に抱え、黒いネクタイで首を締め上げられながら、一生懸命煙草を吸っていた。遠目でも汗だくになっているのがわかる。私は「中で待ってます」と声をかけようと、一歩踏み出したが、隣で笠奈が「私も吸いたい」と兼山の方へ行ってしまった。私はその場で待つ以外にできなくなり、仕方なく上着を脱いだ。なんとなく脱ぎたくなかったが、汗の量が尋常ではなかったので諦めた。
建物に入るとかなりの人数がいて、そのせいか冷房が思ったよりも効いていなかった。私たちは終始隅の方で固まり、周りの様子を眺めていた。やはり同級生の姿が目立つ。泣き崩れている女の子のそばには、親が寄り添っている。
天井にくくりつけられたスピーカーからお経が流れ始めると、係員の誘導で参列者は2列に並んでいった。焼香するために、長い廊下を少しずつ進んでいく。列の進み方は左右で全く異なり、私はいつのまにか笠奈や兼山とはぐれ、1人で歩いていた。廊下の片側はガラス張りの窓となっていて、庭木がいくつか植えられている。さらにその向こうにの向こうにロータリーがあって、カーブにそって幾つもの花環が並んでいた。私はふと、祖父が死んだ時のことを思い出していた。死んだ年齢が違いすぎるせいなのか、祖父の時はこんなに大勢の人などいなくて、全体的にもっとこじんまりしていた。やはり真夏の夜中に息を引き取り、死体が腐ると、大急ぎで葬儀の日程が決められた。私がまだ小学生の頃の話だ。ミキちゃんはもう3日経っている。もちろんあの頃とは違うからきちんとドライアイスなんかで徹底的に冷やされ、傷みは最小限に抑えられているのだろう。それでも誰にも気付かれない細かい部分で、ミキちゃんの体は朽ち、そこから腐臭を放っているのだろう。私は、なるべく現実的で実際的なことを考えて、思い出とかそんなところに思考が及ばないように注意している。
列がどんどん枝分かれして、8列になったところでようやく焼香の番がきた。対面式にずらりとミキちゃんの両親や祖父母が並んでいる。兄とおぼしき人物は確認できたが、妹の姿は見えなかった。私はその向こうの、親戚たちの固まりの中に妹の姿を探したが、見つけることはできなかった。自閉症はお別れにも参加させてもらえないのかと勝手なことを思ったが、後ろが押し迫ってる中、ほとんど焼香する一瞬のタイミングで奥の人物を見分けるのなんて、不可能に決まっていた。
出口で笠奈と兼山に合流して外に出ると、2人は真っ先に灰皿の元へ行き、煙草に火をつけた。私はそれがとても不謹慎に思えた。とは言っても怒って先に帰るわけにもいかず、仕方なく立ち尽くして蝉の鳴き声をに耳を澄ます私は、下手をしたら暑さに頭をやられたおかしい人のようだった。とにかくすぐにでも帰りたい。兼山から離れたい。ミキちゃんがいないのなら、私の生徒は0で、もう塾とは何の関わりもなくなる。もう2度と塾講師なんてやりたくない。笠奈は兼山と何かを喋っているが、声はここまで届かない。喫煙コーナーは植木で囲まれていて、葉が風にそよぐ様子を見ていると、こちらよりも涼しそうな錯覚すら覚える。兼山が煙草を挟んだ右手をどこかに指し示し、何かを説明している。笠奈は背中をこちらに向け、表情が見えない。煙草なら私の車で吸えばいいのに。笠奈は遠慮して車の中で吸ったことはない。遠慮の方向が間違っている。つくづく馬鹿な女だと思う。
ようやく笠奈と兼山の一服が終わり、兼山に適当に挨拶して帰ろうとすると、笠奈が「ちょっと兼山さんとご飯食べて帰るから、悪いけど1人で帰ってくれる?」と言われた。私が兼山の顔を真正面から見ると「今後の授業のこともあるし、今回のことも、ちょっと整理したいんだよ。他の生徒の影響もあるし」と言い訳がましく並べた。それなら私も同席すべきだと提案しようと思ったが、どうせなんだかんだ理由をつけられて拒否されるのはわかっていた。私は、ただ兼山のことを睨みつけた。顔のパーツを1つずつゆっくりと眺める。不自然なくらいそのままの態勢でいたので、兼山は途中で気まずそうに何度も目を逸らしたが、私は構わず見続けた。これで兼山は確実に私と笠奈の関係を悟っただろう。笠奈はずっと下を向いていた。
家に帰ってからすぐに服を着替え、そのまま笠奈からの連絡を待っていたが、結局その日に電話が鳴ることはなかった。

結局連絡してきたのは、翌日の夜遅くになってからだった。まず一番に謝られた。それだけでも嫌だったのに、笠奈は電話口でも十分わかるくらいに、激しく泣いていた。私は別れ話を切り出されることを覚悟したが、ただひたすら謝るだけで、話は全く進まない。今から会えないかと聞くと「できるだけ早くきて」と途切れ途切れに答え、電話は切れた。
いつもの弁当屋の駐車場につくと、笠奈は道の向こうから走ってきて、私の車に飛び込んできた。白いTシャツに黒のジャージを履き、足元もサンダルという格好だった。ドアを勢いよく閉めると「顔見ないで」とだけ言ってすぐに私の胸に顔を埋めた。
気が済むまで泣かせてやろうと思い、笠奈の頭を撫でたり背中をさすったり、弁当屋の看板やTシャツから透ける笠奈のブラジャーのホックを眺めたりした。
やがて笠奈が何かをぶつぶつとつぶやきだし、耳を済ませながら何を言ったのか聞くと「やっぱり君と付き合うんじゃなかった」と私のシャツにしがみつきながら言った。
「なんで?」
「だって、ミキちゃんは君のことが好きだったんだよ。私が取っちゃったから、ミキちゃんは自殺しちゃったんだ。全部、私が悪い」
「そんなわけないだろ」
「ある」
ある、ないの問答を5回くらい繰り返して私たちは黙った。私は一瞬、笠奈の背中に置いた右手の爪を思い切り立てて、Tシャツごと引き裂いてやろうかと思った。かけっぱなしのエンジンのエアコンは出てくる風が何か不快な匂いを放っている。背中にかいた汗が、そのままシートに吸い込まれていくような錯覚を覚えた。
私はささやかな抗議の意を込めて、笠奈の体をきつく抱きしめた。笠奈は息をふっと漏らし、それから「こんな女で、ごめん」と謝った。