意味をあたえる

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十字路(21)

店を出ると人通りはあまりなく、少し歩くと前にいるのは、しわくちゃのワイシャツの中年サラリーマンだけになった。車を停めたのは不動産屋の先の信用金庫の駐車場で、駅から離れているそこは、夜でも施錠されることはなかった。私は不動産屋に貼られた物件情報を順番にけちをつけ、お買い得土地情報の1番端まで終わると、彼女に口づけをした。何の前触れもなかったので、うまく唇が重ならなかったが、ひたすら体を押し付けて彼女が逃げられないようにした。化粧の匂いがする。すぐに顔を逸らされると思っていたら、彼女は力を抜いて、気の済むまでそのままにさせた。予想よりも長い時間、唇をつけていた。
彼女とセックスがしたいと激しく思っていたが、今日に限っては、必要以上に求めないようにと前持って心に決めていた。彼女の性欲について考えを巡らすよりは、すっきりした気持ちでベッドに入り込みたかった。私は改めて、彼女との距離を縮めたかったのだ。

だから、駐車場を出て少し車を走らせたところで彼女に「少し遠回りしない?」と提案された時も、その言葉に含まれるだろう彼女の意図その他については、とりあえず保留にして、少しでも彼女といられる事実を、無邪気に喜んだ。
遠回り以上の指示はないので国道n号線へ出て、南方面へ車を走らせる。かつて彼女とお台場へ行った時に走った道だ。あの時は火星にでも来た気分だったが、今となると、どう見ても寂れた日本の風景にしか見えなかった。一瞬、その火星エピソードを彼女に披露しようと思ったが、笑える話でもなかったのでやめた。このままぐんぐん進み、彼女の了解を得ることなく、夜の海まで行くことも考えたが、後悔することは目に見えていた。私は速度検知器のゲートをくぐった次の信号で左へ折れ、役所方面へ走らせた。片道一車線の道路へ入ると、一気に暗くなる。確か道の左側に運動公園があるはずだったが、入り口の場所すらはっきりしない。ずっと先に見えるコンビニの明かりが、灯台のように見えた。
彼女は私のコース選択について、特に何も言わなかった。というか、車に乗ってからほとんど喋っていない。ハンドルを握ってから、私は彼女をホテルへ連れ込むべきかについてと、検問にぶつからないためにはどのルートを取ればいいのかに頭を取られ、あまり彼女の状態について注意を払っていなかった。世間話くらいはしたかもしれないが、あまり覚えていない。ひょっとしたら、眠くて帰りたくなってるかもしれない。あるいは車酔いの可能性もある。私は「帰る?」と「酔った?」をテンポ良く繰り出したが、いずれも首を横に振られただけだった。最低限の言葉と動きで済ませてしまおうという、狙いが感じられ、というか狙いとは何だろう。完全に酔いが覚めました、というアピールか。逆に酔っ払って、無口になってるのかもしれない。
私は試しに助手席側の窓を数センチ開けてみたが、入ってくる風に対して、良いとも悪いとも言わなかった。風が私の前髪も揺らしたので、気づいていないとは思えない。私は冷房を切り、運転手側の窓も開けた。虫の鳴き声とタイヤの音が、冷たい風と共にはいりこんでくる。

特に脈略もなく走っていたが、いつのまにかn号線に通じる道へ出てきてしまう。時計を見ると、1時間以上走っていることになる。そろそろ潮時だ。そう思うと眠くなってくる。n号線の信号まで来ると、私は自宅の方角へハンドルを切った。再び片側2車線へ来ると、他に走っている車はいなかった。道路は緩やかに右へカーブし、田んぼばかりで遠くまで見渡せるが、ほとんど闇に塗りつぶされてしまっている。なんとなくアクセルを踏み込み、無意味にエンジンをふかす。回転数の上がったエンジン音が、耳に届く。
ようやく24時間営業のファミレスの明かりが見え、風景が街らしくなってきたところで、彼女は「もう少し。帰らないで」と訴えてきた。私はあくびをしたのを悟られないようにしながら、行きたいところでもあるのかと尋ねるが「別に」という返事しかない。声に表情はない。私は何かを察しなければいけないのだろうか。何度か彼女の顔を盗み見るが、道路灯の光くらいでは、表情は読み取れない。彼女は自分の腕を抱えるように座り、あごを引いて、じっと前を見ている。たまに下唇を人差し指でなぞる。黒いブラウスはゆったり目のシルエットで、余った布が胸の辺りに寄せ集められ、シートベルトを谷間にして、複雑なシワを作っている。どうして黒い布に色の濃淡がつくのか、不思議に思う。

私は鈍感な男でいようと心に決め、彼女の気が済むまで、ひたすらn号線を行ったり来たりした。いちいち右折したり左折したりするのも面倒なので、手頃な交差点でUターンをした。他に車もいないので、右折車線とか、そんなものにはこだわる必要はなかった。悪ふざけで、二車線の真ん中を走ったり、ついでに信号も無視ししてみた。
いい加減彼女も根を上げないので、川向こうまで行動を範囲を伸ばそうと考えたところで、突然「止めて」と声を出した。久しぶりに聞いた彼女の肉声は、なんの前触れもなく発せられ、聞き間違いを許さないような雰囲気だった。少し先の交差点を、左に折れて停車し、サイドブレーキをかける。彼女はすぐにシートベルトを外したが、しばらくそのまま動かなかった。体調でも悪くなったのかと聞いても、返事はない。気まずくなった私はエンジンを止め、座席を少し倒した。周囲が虫の音だけになると、ここまでの運転の疲労感が肩や腰に出てくる。
やがて彼女は意を決したように「ちょっと待ってて」とだけ言って外へ出た。さっきとは違う曖昧な声で、"待ってて"の部分はほとんど聞きとれなかった。やはり車に酔ったんだと思い、ダッシュボードからビニール袋を取り出し、後を追う。だが、彼女はドアに手をかけたまま、交差点の真ん中を見つめていた。私は彼女の目線の先と、表情を交互に見る。
他と比べれば小さな十字路だった。n号線と交差している道路は細く、数メートル先は闇に消えてしまっている。通ったことのない道で、どこへ通じるのかはわからない。歩道は白いラインで区分けされてるだけで、しかも道端からは雑草がはみ出し、歩行者がまともに歩けないのは明らかだ。アスファルト全体がひび割れ、へこみ、もう何年も補修されてないようだった。私は子供の頃に見たn号線のことを思い出した。

不意にドアを閉める音がして、見ると彼女は道路へ向かって歩いている。声をかけようとしたが、迷いのない足取りを見て、タイミングを失ってしまった。
交差点の中央には、それを示す十字の表示が描かれていて、彼女はその上で立ち止まった。十字は綺麗な90度ではなく、少し角度がずれている。暗闇の中、そこだけは明るく、スポットライトでも浴びているかのようだった。光の加減でこちらに向けた彼女の背中は黒く、シルエットからはみ出た髪の毛は、金色に輝いている。彼女は見えない客席に向かって、何かの演技をしているように見える。
劇場の裏方のような気分になって彼女を見守っていると、今度はひざまずいて四つん這いの格好になった。白いスカートがこちらに向けて突き出され、ふくらはぎの地肌が露わになる。と思った瞬間、彼女の体中の力が抜け、その場に倒れこんだ。うつ伏せの状態で、顔を右に向けている。黒くて長い髪が、彼女の顔を半分くらい覆っている。ちょうど十字の表示に沿うように、彼女は横たわっていた。地面には小石が散らばり、その中には車のヘッドライトのかけらも混ざっているのか、彼女の周りでは細かい光が放たれている。無意識のうちに、私は自分の左頬をさすった。
私は自分の取るべき行動について考えていた。例えば彼女が突然狂ってしまったということは、十分考えられる。だとしたら、今すぐ駆け寄って抱き起こし、どこまで正気を保っているのかを確かめ、夜間でも開いている病院を探さねばならない。だが、ここまでの彼女の様子を振り返ってみると、どこか確信に満ちた行為であるような気がした。今、彼女が十字路の真ん中で横たわる行為は、何かしらの儀式なのだ。そう思うと、安堵と共に、どこか侮蔑的な気持ちを覚える。
どちらにせよ、私の目の届く範囲にいる限り、急いで何か行動を起こす必要はない。気をつけるのは、他の車が来た場合だが、この見通しの良い道路なら、手遅れになることはないだろう。

考えがひと段落すると、煙草が吸いたくなってきた。生まれてからまともに吸ったこともないくせに、肺を煙で満たしたくなった。あるいは狂った女を煙草でもふかしながら、優雅に眺めたいのかもしれない。
車の中を見ると、助手席に彼女のバッグがあった。運転席側から手を伸ばして持っきて、ためらうことなく止め具を外す。革製の表面は熱くも冷たくもなかったが、中に手を突っ込むと冷んやりとした。
暗くてよく見えないから、手探りで目的のものをつかみとろうとする。居酒屋で彼女は、煙草を吸っていただろうか。間違いなく吸っていた。銘柄はわからないが、細長い箱に入っていた。ライターと共にポーチに入れていたような気もするが、そこまではわからない。どちらにしてもそう手間はかからずに見つかるはずだ。
財布や化粧ポーチやキーホルダーの感触に紛れて、硬いものが指先に当たった。間違いない。強引に引っ張り出すと、長細い箱が手の中にあった。だが、何か様子がおかしい。見慣れないデザインだし、煙草の箱よりも一回り大きい。目の前に持ってきて確認してみると、それは妊娠検査薬だった。妊娠検査薬は上半分のビニールが剥がされ、上蓋は外側にめくれていた。開けてみると、中にはスティック状の袋が何本か入っている。元々何本あったのかはわからない。私はそれをバッグの底の方へ押し込み、止め具を戻した。が、再び開けて箱を取り出し、用法等の書かれた細かい字を目で追った。さっき無理に押し込んだせいなのか、箱の側面が少しつぶれている。ひと通りのやり方を把握すると元に戻し、バッグを助手席に向かって投げつけた。
その間も彼女は横たわったままだった。

‥‥

光が迫ってきた時、それが何を意味しているのかについて、なかなか気づかなかった。すべての風景が黄色がかり、まるで強い風でも吹いたみたいに、周りの草木が後ろへのけぞっているように見えた。私は映画の主人公になったような気持ちになっていた。
彼女を見る。相変わらず横たわったままで、久しぶりに色彩を帯びた彼女の服や髪が、無性に懐かしく見えた。だが、ようやく状況を飲み込んだ私は、精一杯の力で地面を蹴り、彼女の元へ近づく。

圧倒的な光に照らされた彼女の顔には、一切の影がなかった。



<了>