意味をあたえる

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音楽室(16)

下駄箱を確認すると全くの空っぽで、音楽部が使っている様子はない。そもそも練習は何曜日だっけ? 空っぽということはタヤマ先生も不在ということになるが、先生は靴を脱がずに、いつもそのまま中に入っていた。思い出した。靴ではなくてスリッパだった。服装には気を遣っていたのに、なぜ足元は学校の緑のスリッパなど履いていたのか不思議だった。
軽くノックしてから、ドアに手をかける。ぱちという音がして静電気が指先に生じ、あわてて指先を引っ込める。
もう一度。
開かない。
鍵だ。
そんな馬鹿な、と思う。
職員室にいる可能性だって充分にあるのに、そんな馬鹿なと思う。
改めてノックしてみる。さっきとは少しリズムを変えて、こん・こんと手の甲をぶつける。今さっきまでドアを開けようとした人とは、別人を装えば開くかもしれない。変化なし。
とにかく、不在だとしてもしばらくはノックし続けなければいけない。今振り返ったらまだ芳賀くんと今井さんとチカちゃんがまだいるかもしれない。3年の教室と第二音楽室は同じ階の同じ廊下だから、愛華のことを見ている可能性がある。振り返って目があったら最悪だ。とにかく3人が帰るまではドアの前で粘らなければならない。

準備室のドアを試したり、入口の隙間を覗いたりするうちに時間は流れた。ここまで粘れば大丈夫だろうと思い、ひと息ついたところで誰かが愛華の肩に手をかけた。今井さんだ。本当にしつこい。タヤマ先生を探す振りをして、振り切ってしまおう。振り向いて思い切りにらみつけると、手をかけたのは今井さんではなく、4組の前田くんだった。今井さんたちは、とっくに帰ってしまっている。
とっさに「仕返し」という言葉が頭に浮かんだ。4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって。まさかタイミングがかぶるなんて。
「誰もいないみたいだけど。音楽部?」
必死に冷静さを装いながら、愛華は扉を指差した。仕返しのことは知らない風を装わなければならない。タヤマ先生の名前は死んでも出さない。
「だろうね」
前田くんは口元に笑みを浮かべながら答えた。前田くんは相変わらず短い髪を逆立てていて、顔はニキビ面だ。冬なので学ランの中に白いパーカーを着ている。フードの部分は外に出しているから嫌でも目立つ。そんな格好をしているのは学年に何人もいない。
前田くんの後ろには男子生徒がもう一人立っていた。髪が耳までかかっていて目が細く、ずんぐりした体型のくせに制服のサイズが合っていないのか手が半分隠れている。見たことがない。にこにこした表情がかえって不気味だ。
廊下には愛華を含めて3人しかいない。思った以上に時間が過ぎていて、みんな帰ってしまったのだ。前田くんの背中の向こうががらんとしているのを見て、愛華は全身から汗が噴き出すのを感じた。顔から血の気が引く。
「ふうん。じゃあわたし、ゴトウ先生のところに行くので」
声が震えないよう注意を払いながら、愛華は言った。急いで体の向きを変え、歩き出そうとした瞬間
「そうじゃないんだよな」
と聞こえた。なんだそれ。愛華が反論しようとした瞬間、耳元で「ぱん」と音が鳴った。愛華の右のこめかみに血が集まり、そこが熱をもつ。前田くんが愛華の頭を平手で打ったのである。手で押さえようとすると、今度は左側を殴られた。
「痛い」
声を張り上げるとまた殴られた。押さえていた手の上からなので、さっきとは違う音がする。前田くんは側頭部ばかりを執拗に狙う。その度にきん、と耳鳴りがし、めまいがする。身をよじって逃げようとしても、もうひとりが立ちはだかっている。押しのけようとしても押し返され、背中に壁がぶつかる。打つ手のなくなった愛華はその場にうずくまった。そこを蹴られる。
がちゃがちゃという音が聞こえる。目をやるとずんぐりが準備室のドアを開けている。鍵には板がつけられ、そこに「音楽準備室」と書かれている。板は麻ひもでくくりつけられている。
鍵が開けられる間は暴力は止み、愛華は現状の把握に努めた。逃げられるのか。声をあげるべきなのか。失敗したらもっと殴られるだろう。手がぶるぶるふるえ、涙もとまらない。殴られたところはしびれて感覚がない。それなのに、うまくできるわけがない。
そもそもなんでこんな理不尽な目にあわなければならないのか、納得できない。前田くんはタヤマ先生に復讐したかったはずだ。殴ったのはタヤマ先生で愛華ではない。完全な人違いだ。しっかり問いただしたいが、また殴られそうで怖い。
ずんぐりは鍵を開けるのに手間取っている。「家のと違って」なんて言い訳している。
「お前んち、引き戸じゃねーの?」
「引き戸だよ」
「じゃあ同じじゃん」
「ちょっと鍵の形が違う」
「鍵なんてどれも一緒だから」
「違うって」
愛華としてはこのまま口論にでもなって、永遠にドアが開かなければと願うが、途中で前田くんにバトンタッチしたらあっさり開いた。ずんぐりは用心深い性格で、前田くんがドアを開けている間ずっと愛華から目を離さなかった。
2人が両サイドから愛華の腕を抱え、中に引きずり込む。これから行われることについてはよく分かっている。抵抗しても無駄ならさっさと終わらせてしまいたい。愛華はむしろ自分の意志で歩きたいが、膝が笑って思い通りに動かない。
音楽準備室は入るとすぐに楽器の棚があって、奥にはグランドピアノもあって手狭だ。ピアノの側面に、歪んだ3人の姿が写る。ピアノと大太鼓の間に愛華は座らされ、服を脱がされる。そこが入口からも音楽室の通路からも死角なのだ。窓にはカーテンがかかっていて、その向こうから吹奏楽部の音出しが聞こえる。よく晴れている。初詣の日も快晴だった。愛華としてはすっかり観念し、されるがままになっているが、2人の男子が下手くそで、マフラーとコートまではうまくはぎ取れたが、その先がなかなかうまくできない。抵抗していると勘違いした前田くんが、頭をはたいてくる。ピアノと大太鼓のせいでうまく振りかぶれないらしく、さっきほど痛くはない。それでもみじめなことには変わりない。
後ろ手にブレザーを半分脱がされ、ブラウスのボタンを途中まで外された間抜けな格好で、愛華は自分の罪について考えていた。こんな目に遭わされるということは、それだけのことをしたのだ。生徒会とがN高だとか、自分には高望みだったのである。ソフト部の練習についていけなくて、こそこそとサボっていた時のことを思い出す。他人の顔色ばかりうかがい、言いたいことも言えずにうじうじ悩むのが本当の愛華だった。それなのにタヤマ先生や前田くんを利用して芳賀くんや今井さんに近づき、教師に真面目にやれなんて偉そうな言い、すっかりいい気になってしまった。だからこうなっても当然の報いだ。前田くんの仕返しは、最初から愛華に向けられたものだった。
「ごめんなさい」
涙声で繰り返し謝る。こうして服がうまく脱げないのも、愛華が全部悪いのである。
愛華の謝罪にずんぐりが噴き出した。涙と鼻水にまみれながら謝り続ける愛華が滑稽だったのである。待ちきれなくなった前田くんが、服の上から愛華の胸を鷲掴みにして押し倒す。
そのとき室内に大音量が響いた。
全員が顔を上げ、辺りを見回す。最初は何か大きなものが落ちたのかと思った。大太鼓の打面がびりびりと震えている。その後でソプラノが歌い出す。「夜の女王のアリア」だ。音楽の授業で聞いたことがある。夜の女王が主人公に復讐を促す歌である。
曲は音楽室の方から流れてくる。よく見ると音楽室へ通じる扉がいつのまにか開かれている。音楽室に誰かいる。
愛華は反射的にタヤマ先生を思い浮かべた。曲がサビの高音にさしかかったところで、確かにタヤマ先生が現れた。その頃には前田くんとずんぐりはすっかりうろたえ、その場に立ち尽くしている。
曲が終わるまで、タヤマ先生も動かなかった。タイトスカートにタートルネックのセーターを着て、足元はいつもの来客用のスリッパだ。ピンクのフレームのメガネの奥は無表情で、見方によっては愛華たちにはまるで関心がなく、曲に耳を澄ませているようにも見える。
「前に出なさい」
授業のときの、声が出てない生徒に言うのと同じだ。爆音の歌が終わった直後で部屋はしんとしており、普段よりも声の冷たさが際立つ。前田くんとずんぐりが愛華から離れる。2人ともタヤマ先生よりも背が高いが先生は全く動じず、腕を組んでいる。
「警察呼びましたので。暴行罪です。2人にはもう未来はありません」
淡々とタヤマ先生が説明した。2人は直立したまま動かなかったが、先生が「戻ってください」と言うと急いでどこかへ行ってしまった。

警察を呼んだのははったりだと愛華は思っていたが、程なく外からサイレンの音が出て外が騒然となった。そうなると警察がここまで来るのかと愛華はおびえたが、タヤマ先生はただ110番しただけで、警察もなんで通報されたのかを知らなかった。教師たちが手分けして校舎の中を点検して回ったが、音楽室は鍵がかかっているのを確認すると、そのまま行ってしまった。

タヤマ先生は最初は愛華の頭をゆっくり撫で、髪を直してくれた。それから体に手を回して抱きしめ、背中をぽんぽんとたたき始めた。頭にしろ背中にしろ愛華にはそれが自分の体のように感じなかった。それでもタヤマ先生の腕にしがみついて泣いていると恐怖が徐々に和らいでくる。
「立てる?」
愛華がうなずくと2人でゆっくりと音楽室に移動した。室内はストーブが点けられ暖かかった。タヤマ先生は愛華のブラウスのボタンをはめ、上に自分の黒いコートをかけてくれた。準備室に放り出されたコートとマフラーとブレザーを取ってくると、シワを伸ばしながらグランドピアノの上に並べた。
それから2人で一度部屋を出て廊下の水道まで行き、愛華は顔を洗った。顔が腫れぼったく、水が冷たかったが、徐々に慣れた。日が暮れかかっており、周囲は薄暗かった。用意されたタオルで顔を拭くと、先生が顔をのぞきこんでくる。
「見た目は、大丈夫そうだけど。どこか痛い? 口の中は切ってる?」
愛華の状態を確認するために見ているのはわかっているが、顔を見られるのは恥ずかしい。恥ずかしいと思うと勝手に涙が出てぐずぐず泣いてしまう。思わず「ごめんなさい」と謝ってしまう。
「戻ろう」
再びタヤマ先生に肩を抱かれ、音楽室に戻る。扉を閉めると、タヤマ先生は忘れずに鍵をかける。
愛華ちゃん来なくなってから、鍵かけるようにしたんだ」
愛華を再び座らせると、先生は紅茶を淹れてくれた。相変わらずケトルのコードをほどくのに手間取り、先生は苛立っている。愛華はその様子を見ながら、こうして放課後の音楽室にくるのはいつ以来だろう、と考えた。さっき自分が来なくなってから鍵をかけるようになったと言っていた。動作がなめらかだったから、もう長い間そうしているのだろう。
紅茶を飲んで一息つくと、することがなくなってしまった。愛華は体が重くて頭も痛み、家に帰って横になりたかったが、それでも暖かい音楽室は居心地が良かった。それに今は一瞬でもひとりになりたくない。
タヤマ先生もどうしていいかわからないのか、
「お菓子、ないんだよね。ダイエットしてて。あと職員会議で問題になって......」
とぶつぶつ言っている。ダイエットという割に、体型には変化がない。上半身はセーターでごまかしているが、タイトスカートは少しタイトすぎる。
「先生、ピアノ弾いて」
「おっけー」
愛華の言葉に助けられたように先生がピアノへ駆け寄り、椅子の調整を始める。こんな人だっただろうか。
タヤマ先生はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」「英雄」を一気に弾いた。相変わらず手の動きが機械的で無駄がない。ふっくらした手だと思っていたが、遠い鍵盤に指を伸ばすと骨が出る。まっすぐに下ろした髪が横顔に垂れている。先生はそれには全く注意を払わず、ひたむきに弾いている。曲は全部頭に入っているらしい。
ラヴェルモーツァルトもラ・カンパネルラも、知っている曲も知らない曲もあった。適当なところで切り上げてしまう曲もあった。愛華は机の上に腕を投げ出して聞いているうちに、眠ってしまった。ピアノの旋律が、外国語のニュースみたいに耳に入ってくる。
色も形もない夢を見ながらまどろんでいると、どこかで聞いたことのあるメロディーが聞こえてきた。

「たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならず僕が そばにいて
ささえてあげるよ その肩を」

愛華も小学生のときに歌ったことのある「BELIEVE」という合唱曲だ。タヤマ先生がピアノを弾きながらまっすぐ前を向いて歌っている。弾きなれていないのか、それまでの自信満々な演奏とは異なり、たどたどしい。歌詞を何度も間違え、むにゃむにゃと誤魔化すところもあった。それまでのギャップと意外な選曲に愛華の眠気は完全に飛んでしまった。 
愛華ちゃん、卒業おめでとう」
歌が終わると先生は愛華のほうを見て、愛華にそう言った。
「先生、何言ってんの。卒業式はまだ2ヶ月先だよ」
「そうだけど、多分そのときは言えないと思うから」
「なんで?」
「わたし、教師やめるから」
「嘘」
「嘘」
「ちょっと、意味わかんない」
「うん、でも卒業式のときは、先生みたいに言わなきゃでしょ?」
「それも意味わかんない。先生でしょ?」
「そうだけど、友達として言いたかったの」
「友達」のところで先生は照れくさそうに自分の髪を耳にかけた。その仕草を見ていると、本当に同級生みたいに見えてしまう。
「わたし、友達なの?」
「うん」
「だってひどいことしたよ?」
「それはお互いさまじゃない、それに」
「それに?」
「友達ってそういうものでしょ?」
愛華はうん、と言ったが、その言葉が意味する本当のところはわからなかった。先生の優しさだけが心に染みた。涙ぐみそうになるが、また先生のひどい歌を聞かされそうだからこらえた。窓の外がすっかり暗くなり、遠くの街灯が灯台のように見える。
「さ、帰ろう。家の人も心配するし。送るから支度しよう」
「家の人」だなんて先生みたいな言い方するんだな、と愛華は思った。

タヤマ先生の予言通り、卒業式で顔を合わすことはできなかった。2月の終わりに先生は隣町の中学に異動してしまったのである。時期としては異例中の異例なので様々な噂が流れた。音楽室にこもってクスリをやっていた、とが教え子に無理やりキスして訴えられた、とか。前田くんは登校拒否になり、ずんぐりはそもそも何年でどこのクラスなのかも知らない。

今井さんは始業式の愛華の様子を心配して、翌日にメールを送ってきた。「芳賀くんのこと、気づけなくてごめん」と謝ってきたので、「チカちゃんのことが好きなら仕方ないもん。それなのにひどい態度をとって、わたしの方が、ごめん」と素直に謝った。友情は簡単に復活し、2人で担任のところに行って、第一志望を変えることを話した。N高のさらに上のW女子校にすると言うと、担任は今井さんばかりを説得しようとした。愛華のことは完全に見放している。次の休みに神社に行って改めてお揃いのお守りを買うと、2人で猛勉強をし、無事に受かることができた。合格発表の掲示板の前で、手を取り合って喜んだ。今井さんは泣いていたが、愛華は泣かなかずに今井さんの肩を抱いた。

卒業式の後に芳賀くんに告白された。校舎の裏に呼び出され、チカちゃんとは1ヶ月で別れたことを告げられた。第2ボタンのない制服で、生徒会のことや夏休みのこと、教師との議論のことやタヤマ先生への愛華の立ち回りのことなどを一気に話した。次々と出てくる思い出の場面に、愛華は卒業式のリバイバルみたいだな、と思った。
「俺、気付いたんだよ。松永のことが好きだってこと。好きだし、尊敬している」
非の打ち所のない言い回しに、愛華は素直に感心した。生徒会の演説も、クラスをまとめるときも、いつもこんな感じで、みんなの心をつかむ。
「芳賀くん、ありがとう。生徒会楽しかったね。でも芳賀くんは、私じゃなくてもっと違う人が好きだと思うよ」
「だから墨田とは別れたんだって」
「ごめんなさい。わたしもう、中学のことは全部忘れたいんです。早く高校生になって、また1からスタートしたい。自分のしたいことをしたいの」
「忘れたいって、俺のことも?」
「そうです」
芳賀くんの顔から表情が消え、放心状態になった。しばらく沈黙が続いたので
「戻ってください」
と言うと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。

校舎の裏は日当たりが悪いため、体がすっかり冷えてしまった。道路沿いに植えられた桜はまだつぼみの状態だった。その向こうでトラックが大きなエンジン音を立てて通り過ぎる。空を見上げると校舎の3階の窓が、ちょうど音楽室になっていた。赤い絨毯やグランドピアノが頭に浮かぶ。タヤマ先生はもういないが、またあそこに迷い込む生徒はいるのだろうか。
「さよなら」
誰にともなくそうつぶやいて、愛華は歩き出した。

愛華は春から高校生になる。


〈了〉