意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

幸せは断片

ちょっと前の記事で同じタイトルを使ったが、そのときはそのことについて書けなかった。そのとき書きたかったのは、あるとき私は通勤していた。するとその途中の道の真ん中で父子が遊んでいて私は平日の朝に何をしてるんだろう? 父は失業中なのかな? と思った。やがて幼稚園のバスがやってきて、父子の子のほうは幼稚園児であり、そのバスに乗り込むものだということがわかった。父子はバスを待っていたのだった。私は自転車で通勤していて、父子が遊んでいたのはちょうど通り道だったが、父子に遠慮してその前の交差点を右に折れたのである。普段から通る道なのにどうしてその日に初めて遭遇したのか。


それよりもその光景はかつての私で、私もよく子供と一緒に幼稚園のバスを待っていた。バスに乗せてから私も車に乗って会社へ行くと、会社へは少し早めに到着した。子供が小学生になると私の会社への到着は始業のギリギリになった。やがて私の仕事量はどんどん増えて、子供が小さい頃に仕事が暇で良かったと心の底から思った。もうおぼえていることは少ないが、向かいの家の段差の継ぎ目に蟻が巣を作っていて、蟻が継ぎ目からいらない土塊を捨てていて私は感動した。その様子を子供に教えて子供がその家の人に教えたら、家の人は継ぎ目に薬をまいて蟻を殺してしまった。私はがっかりしたが、この人による価値観の差が愉快だった。その人はおじいさんで創価学会の人で、創価学会の人は蟻に厳しいのかもしれない。ものすごい長生きで今も生きているが、今は施設に入っている。私はお別れに立ち会えなかったが、今生の別れになるのは多分確実だった。家族は一度その創価学会のおじいさんと電話で話したが、まるで天国と電話がつながったみたいだと言った。嘘だ。それは今私が思いついたことだ。私は施設なんかに入りたくないと思うからできるだけ足腰を丈夫にして計算もできるようにしたいが、最近は運動もできないから自信がない。