意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

おとうさん

妻とモツ煮込み屋へ昼をとりにいった。座敷のおくには親子がいて父親と息子という組み合わせだった。息子は高校生かそれ以上という感じで交わす言葉もなく、ただ飯を食いにきた、という雰囲気であった。息子はチェックのネルシャツにジャージのズボンという出で立ちでスマホをじっと見ている。父親はジーンズにしっかり上着をしまい、腕組みをしている。腹が出ている。ザ・お父さんという感じだなと私は思った。やがて食事が運ばれてきて、2人は黙々と食事を始める。


しかしやがて思ったが、現実のお父さんというのは、年代で言えば私くらいであり、私がザ・お父さんとイメージしたのはもっと上の年代の人である。目の前のモツをすする男は、ひょっとしたらおじいちゃんなのかもしれない。食事が終わって帰るところを見たら、思ったよりも息子は大人で、やっぱりこの二人は親子なんだろうと思った。


それからなんか色々あったが忘れてしまった。さっき大きな地震があった。

言い当てられて、景色が広がる

今日で上司が退職した。私が今のところに赴任してから何人目だろうか。何人目といっても2人目と4人目が同じだったりする。他にもいろいろ人が入れ替わり、誰かが「風向きが変わる」と言った。その上司と一緒に昼飯を食い、第一駐車場が一杯だったので第二駐車場に車を停めた。よく晴れていた。私の電話が鳴り、比較的良いニュースの電話だったので気分が良く「卒業式みたいだな」とふと思った。
「上が変わるとモチベーションも上がらんでしょう」
とその人が言った。お前が言うなよ、と思ったがそれを聞いて私は今、モチベーションが低いのか、と思った。私はここのところの停滞を、てっきり人生の苦難みたくとらえていたが、もっと単純な話だったようだ。感覚が一般化されると、少し気が軽くなった。

幸せは断片

ちょっと前の記事で同じタイトルを使ったが、そのときはそのことについて書けなかった。そのとき書きたかったのは、あるとき私は通勤していた。するとその途中の道の真ん中で父子が遊んでいて私は平日の朝に何をしてるんだろう? 父は失業中なのかな? と思った。やがて幼稚園のバスがやってきて、父子の子のほうは幼稚園児であり、そのバスに乗り込むものだということがわかった。父子はバスを待っていたのだった。私は自転車で通勤していて、父子が遊んでいたのはちょうど通り道だったが、父子に遠慮してその前の交差点を右に折れたのである。普段から通る道なのにどうしてその日に初めて遭遇したのか。


それよりもその光景はかつての私で、私もよく子供と一緒に幼稚園のバスを待っていた。バスに乗せてから私も車に乗って会社へ行くと、会社へは少し早めに到着した。子供が小学生になると私の会社への到着は始業のギリギリになった。やがて私の仕事量はどんどん増えて、子供が小さい頃に仕事が暇で良かったと心の底から思った。もうおぼえていることは少ないが、向かいの家の段差の継ぎ目に蟻が巣を作っていて、蟻が継ぎ目からいらない土塊を捨てていて私は感動した。その様子を子供に教えて子供がその家の人に教えたら、家の人は継ぎ目に薬をまいて蟻を殺してしまった。私はがっかりしたが、この人による価値観の差が愉快だった。その人はおじいさんで創価学会の人で、創価学会の人は蟻に厳しいのかもしれない。ものすごい長生きで今も生きているが、今は施設に入っている。私はお別れに立ち会えなかったが、今生の別れになるのは多分確実だった。家族は一度その創価学会のおじいさんと電話で話したが、まるで天国と電話がつながったみたいだと言った。嘘だ。それは今私が思いついたことだ。私は施設なんかに入りたくないと思うからできるだけ足腰を丈夫にして計算もできるようにしたいが、最近は運動もできないから自信がない。

カマボコ板

主体性のない毎日を送っている。誰かに言われたことのみをこなす毎日である。今よりずっと暇だった頃、何をしてたのか思い出そうとしてもうまくいかない。今が丑年だという事実がうまく飲み込めず、神社の壁面に描かれた牛の絵に奇妙を感じた。何年か前に行った神社である。行きたくはなかったが、家族が行きたいと言うから行った。山の上にあり、道の端に雪が残っていた。踏み固められた雪を靴底でけずりながら
「シャーベットお待ちのお客さま!」
とふざけたが誰も乗ってきてくれなかった。下の子もすでに中学生である。私だけが神社が何をするところなのかわかっていない。宗教施設だということしかわかっていない。鳥居の下の中央に木の柵があって、タックルして倒したら15点とか思ったが、さすがに私はそれが置かれている意味を知っていた。

あまり本も読まなくなった。根気がなくなってしまったのである。だから漫画とか推理小説を読んだが、途中で嫌になってしまった。漫画は過去のエピソードがワンパターンすぎていい加減うんざりするし、推理小説はハラハラしすぎてしまう。モンテクリスト伯はとてもおもしろかったのに、不思議である。仕方がないのでまた小島信夫を読んだり、保坂和志を読んだ。まったく面白くなかった。かつてはここから色んなことを思案して、それを文章にした。今は文字が私の表面を滑り落ちるだけである。私は自分が堅い板のようになったと思った。カマボコ板である。何も染み込まない。セロニアス・モンクを聞いてみたが、同じだった。オフィシャル髭男爵はあざとさばかり感じてしまう。キングヌーの方が器用だ。

世の中が様変わり・幸せは断片

書き続けていると書かなくするのが難しいのと同じように、いったん書くことをやめると書き出すのが難しい。私は仕事でたまに思い荷物を転がすが、いちばん最初がいちばん動かしづらく、上司に
「遊んでんじゃねぇ」
と怒られる。もちろん遊んでいるつもりはないし、上司も私が遊んでいるとは思っていないのである。ただでさえ下を向くことの多い職場だから、上司と私がじゃれ合うのを見せるのは、周囲に良い影響をもたらすのである。私はべつにそういうのを狙っているわけではないが、私もいつのまにか見られる側になってしまった。

電車に乗っていてとても寒かった。窓が同じくらいずつ開けられており、換気をしているのである。以前より電車に乗らなくなったから、電車で換気をしていることを知らないではないが、いちいち戸惑ってしまう。一年前は電車に乗って通勤していて、駅のホームで震えながら電車を待っていた。とても高い場所にあるホームで、私はその線路を万里の長城のように感じていた。階段もとても長い。

宝くじが当たっても仕事はやめない

こんな世の中だからこそ、「本当のお金持ち」の話をしよう。 - いつか電池がきれるまで

読んで、やっぱり金持ちって面倒だなと思った。少し前に宝くじの話になって「宝くじが当たったとしても億の金が入ったとしても仕事は続けるだろうな」と言ったことを思い出した。私が言ったのである。年末になると誰かが「当たったら仕事やめますので」と言い出してしらけた気持ちになる。やめたところで一体どうやって生きていくのか。食うに困らなくなって、何をする必要のない人生が私には怖い。もう「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳ができないのである。仕事が好きだと言うつもりはない。


配当利益だけで生きているような人からしたら私の考え方は理解できないし、不幸な人に見えるだろう。しかし私からしても資産が目減りしないように神経を張って生きるのもしんどそうに見えてしまうのである。

どうように生活が不安定な人からも私の考えは理解されないだろう。とりあえずの生活が続けられる私は幸福なのである。

私はここのところ幸福について考えていて、私にとっての幸福とは変化しないことではないかと仮説立てたりしている。ここ数年はとにかく変化が多くて、変化しない物事にあこがれてしまう傾向がある。ある日金脈を見つけ、莫大な収入を得たりして、これは仕事をやめつ資産を守ることに注力せねば、とか考えると憂鬱なのである。当然宝くじも怖くて買えないのである。

鬼滅の刃読んでます

お金がないから少しずつ購入して読んでいる。面白い。呼吸がどうとかというところは、流し読みしている。柱と呼ばれる人たちのキャラがいかにも漫画っぽくてシラケるが、各々倒錯しているかんじが鬼を憎み続けるにはまともな神経じゃやってられないっていう風にもとれて、リアルである。

割と各々のやりとりのとぼけたかんじも好きである。いちばん面白いのは、悪の大将が失敗した部下をなじるシーンである。昔から悪が恐怖で縛るというのはあるが、うまい具合にアップデートされていて、現代のブラック企業感がよく出ている。あるいはカルト宗教か。反抗や愚痴を言う部下よりも、自分に心酔する者を取り立てるなんて、およそ実力主義とは程遠い。ブラック企業ってそんなものなのか。鬼の女の石が悪の大将のことを「臆病者」と評していたが、ブラック企業の大将もそんなものなのかもしれない。本当の実力者とは、相手の実力を認められる人であるというのは、一般論だが現実はなかなかそうはいかないのである。

対して善の親玉は一部の鬼は存在を認めるという提案を頑なに拒否する柱の人を否定せず、現代の教育者というかんじがした。こんな人になりたいものである。私は詰められる鬼の中間管理職の人が不憫に思ったが、一方で心のどこかでゾクゾクっとした。