意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

書かねばならないと思うとき

高校の修学旅行へ行って帰ってきた後、覚えていることを書き出したい、と思いノートに文章を綴った。書かねばならない、と強く思った。書き終わったら読み返すわけでもなく引き出しにしまい、そのままどこかへ行ってしまった。誰かに見せたいとか特に思わなかった。それ以外にも学校を卒業するときなど、教師に長い手紙を書いたりしたが、出すこともあったし、そのまま捨ててしまうこともあった。


文章が書けないと嘆く人は、そういう体験のない人ではないかとふと思った。これは文章に限った話ではなく、漫画でも、スノーボードでも同じことだと思う。結果とか意識せず湧き上がる欲求に自らが戸惑い、半ば諦めるようにそれに従うのである。そういえば私の行動は理解できないとよく周りの人に言われた。それは幼稚な自己アピールのこともあったが、やっぱり私自身も理解できないケースもあった。


資本主義なのか会社組織なのかはわからないが、そういうシステムに組み込まれるとまず結果ありきで、だんだん個人の動機はどうでもよくなってくる。私も昔は自分で考えなければ、日一日をつぶすのが難しかった。友達も少なかったから、提案してもらうこともあまりなかった。だから自分の欲求に耳を傾けることができた。それは大きな声の時も、小さな声の時もあった。大きな声に従うようになると、小さな声が聞こえるようになった。それがだんだんとなくなってきた。

部室

中学のときの部活の顧問が体罰をする人で技術科の教師でもあったからそのことは暴力をふるわれる前から知っていたが、まさか私もふるわれるとは思わなかった。私は地味だが大した問題も起こさない生徒だと自負していた。ただ部活はさぼり勝ちだった。一学期は真面目に出ていたものの、夏休みに入って二日目か三日目に炎天下でフェンスの前でぼうっと立たされて、やっていることが馬鹿馬鹿しくなって通うのをやめた。そもそも休みの日なのに学校へ来ていることがどうしても理解できなかった。それから二年たって受験生になったときに塾に行っている友達が「だって昼間遭った友達に夜も会えるなんて最高じゃん」みたいに言っていて塾も行かなくて良かったと思った。部活へ好き好んで行く人はたぶん人と会えるのがうれしいのだ。私にも会って嬉しい人はいたが、そういう人と同じ部活に入らなくて良かったと思った。


それでも部活の人たちとは関係も特に悪くなかったから、だらだらと続けていた。二学期になったら少しは顔も出していた。学年があがった頃に体罰教師が顧問になって私は殴られた。もちろん殴られる妥当な理由はなかった。顔を真っ赤にして怒りを露わにして、今思えばこの人は私たちを家畜のような存在と思っていたのかもしれない。殴られたのは複数で、その中に気の毒な正直者がいて、教師に反論したら逆上して連帯責任となって殴られていない人も土手を走らされた。土手は一周800メートルで30周を2時間で走るよう指示された。私はもちろん理不尽さに反論したかったが、何をしても良い方に転ばない勘が働いたので黙っていた。正直者は殴られなかった人たちからも恨みを買った。その人は深夜ラジオをよく聞いていて、授業中寝ていることが多かった。私はどんな気持ちで走ったのかもうおぼえていない。暗くなった頃に終わりの通達がきて、解散となった。半分も走り終えてなかった。


それから私は特別グレたわけではないが、上級生がいなくなると部室に入り浸るようになり、仲間とわいわい騒いだ。私は人間が嫌いなのではなく、スポーツが嫌いだったのである。たまに顧問がやってくると、顔を合わせないようにして帰った。それで土手から捨てられたソファを拾ってきたりして楽しくやっていたが、あるとき一年にチクられて、顧問と顔を合わせなければならなくなった。部室で楽しんでいたのは他にも何人かいたが、悪いのは私ともうひとりと、あとその場にいない人ということになった。私は頼まれてそうなった。確かに私は主犯格だが、そりゃないぜ、と思った。しかしあまり憎む気にはなれず、私は切られる尻尾になることが多い人生だった。(後から一年は罰として土手を走らされた)


殴られるかと思ったが今回はネチネチと言われるだけだから楽だった。とりあえず無理のない範囲でいない人に責任をなすりつけたら「電話しろ」とその場で受話器と名簿を渡され、緊張しながらかけたらつながらなかった。それでネチネチ言われて結局部室の使用が禁止になったが三日もしたら解禁となった。さすがに前よりかは部室にたまることはしなくなったが、もうその辺の記憶はなくなってしまった。どこかにも書いたが私の人生でいちばん楽しかったのは小学6年で、中学はそこから引きずり下ろされたような三年間だった。高校はいくらか取り戻した。大学は学校はクソだったがバイトとかしてそれは楽しかった。社会人はすべての意味合いが変わってしまった。


その後も出たり出なかったりだったが、夏休みの最後の大会くらいは出ようか、と出たら休み明けに担任に「どうして最後の大会だけしっかり出るのかね?」とイヤミを言われた。それ以外の日はすべて休んだのである。担任は女で、殴りはしなかったがイヤミはよく言った。私は彼女は嫌いではなかった。大会は当然一回戦で負けた。

夏の幕引き

雨が続いて洗濯物が永久に乾かないような気がしてくる。昨日は遅かったが今日は比較的早く帰れてお惣菜コーナーが充実していてちょっと買いすぎてしまった。この前買った黒酢玉ねぎドレッシングが口に合わずに早く使い終わってほしいと思う。自分が本当に食べたい物が何なのか、最近よく迷う。三角食べを行いながら、確か昼間もそんなことをしたよな、と思う。おかずの序列というものがあって、最上位が最後にくるように気を遣わなければならない。そういう脳の働きに幾分飽きてきたきらいはある。

いつの間にか肌寒くなって、私はさびしい。タンスのにおいのするジャージを羽織り、今日は足先が冷えるので靴下を履いた。ほんの数日前まで足先がむずむずするから帰るなり靴下を洗濯機に放り込んでいたのに。

読書感想文が面白いわけがない

子供の宿題の読書感想文につきあわされたがそれは夜で、すっかり子供は夜型人間になっていた。子供と言ってももう中学2年で仲の良い子も私の知らない人ばかりだ。小学校にあがったばかりの頃はまだ自転車に乗れず、ようやく乗れるようになった頃に近所の郵便局まで行き、私は歩きだったから子供はどんどん遠ざかった。私は自転車には乗れたが肝心の私用の自転車がなかった。子供には車道にはみ出ないように注意したので白い線に沿うように遠ざかり、私も白い線に沿って歩くから線が糸に見えて凧が上がっているように見えた。遠ざかる感じがこの先を暗示しているようで寂しかった。しかし過ぎ去った感情は正確に思い出すことはできないのである。

それから一年か二年して友達と遊ぶのに学校で待ち合わせすると言うから国道を渡るから交差点まで私がついて行った。そのときはどういうわけか私用の自転車はあった。無事に渡りきって姿が見えなくなると、私は区切りのようなものをかんじた。そうして少し遠回りして帰ったのである。

そうして交差点を渡りきったはずの子供から読書感想文を手伝えと頼まれた。文章的に変じゃないかと聞かれる役だったが、案の定私はもうどうだっていいじゃんというかんじに早々になって嫌になってしまった。チョイスした本はのび太というのは実はあなどれないぞ、という内容でそれだけでも私は胡散臭さをかんじた。しかし子供は読んだらドラえもんが見たくなったから映画のDVDを見たというからそのことを書けばと私はアドバイスしたが、それは遠い昔に私がコピーしたやつで多分違法だからよろしくないと子供は言って、そうか、と私は言った。多分私が先生でも違法だったらほめないと思ったのである。しかし私は適法でもやっぱりほめないしそれはアドラーの影響である。会社でもほめてくれと要求してくる人はいるが、ほめるのは上下関係を生むからNGなのである。私もほめられることがあって嫌な気がしないこともあるが、心底おもしろくなさそうに振る舞うが、やはり立場のある人には負けてしまうかもしれない。

私は書き尽くした

去年末か一昨年の末なのか忘れたけど、私はその辺からあまりブログを更新しなくなった。たしか2014年からそれまではあまり途切れることなく記事を投稿していた。それがあるときからあまり書かなくなってしまった。

それについて私は2019年くらいから勤務する場所が変わって、だいぶ仕事に費やす時間が増え、私は私が入れ替わるようなかんじがした。多くの人間を相手にせねばならず、翻弄され、ここ数年は人の心理について考える時間が増えた。アドラーを熱心に読んだ。職場には死にたいとこぼす人もいた。私はそういうことにはあまり頓着せず、数年前に商品があふれて文字通り足の踏み場もなくなって、そのときの上司のさらに上役の人に半泣きで現状を訴えた思い出を語った。私はそのときの話を他の人に聞かせたくなかったので、「乾燥室」と呼ばれる物を乾燥させる部屋で上役の人に訴えた。だいぶ暑い部屋だったが、正月明けの寒い日だったからちょうど良かった。他の場所はぎゅうぎゅう詰めだったが、その部屋はがらんとしていた。乾かす物があまりなかったからである。
「なんとかします」
とその人は言った。そうして実際なんとかしてくれたのだが、私はその後その人にだいぶ厳しい指導を受けることになった。


そんな思い出話が相手にどう伝わるかは知らないが、そういえばその人は昔の文豪を思わせる顔つきをしていた。丸眼鏡をかけ、その奥の眼光が鋭かった。後から本人に聞いたら
「趣味はサーフィンなんです」
と言うから、文学などには目もくれない人生を送ってきたのだろうが、私には小説家のように見えてしまった。その人の話では酒を飲んだ後に外をぶらぶら歩いていたら、川のそばで警察に職務質問をされたという。警察があらわれなかったら、入水自殺をしたのかもしれない。

私はその人の喋ることには、どこか胡散臭さをかんじていたが、それでもある種の好意を抱いていた。それは今までに感じたことのない種類の好意だった。

小島信夫保坂和志共著の「小説修行」を読んでいて、私は自分が書き尽くしてしまったことを悟った。今までは仕事の業務の量が増えたから、文章について考える時間が減った影響とばかり思っていたが、そうではなく、書き尽くしたから業務が増えたのである。

私はスポーツに勝手に感動するし選手も気楽にやってほしい

私はオリンピックはなくなったほうがいいと思う側だが別にスポーツに感動しないわけではない。出来るだけバックグラウンドとか意識しないようにするが、それでも不意に涙を誘われてしまうこともある。そういうのは制御不能と考えた方がいいし、だから映画でも仕事でも同じなのである。本当は期待しない方がいいのである。

オリンピックの選手が気の毒に思える。人がコロナでバタバタ死んでも観客入れて開催してほしいと主張してほしい、という意見を読んだが、そんなことを考える選手はいないだろう。今まで世論を手の内にしようとしたんだから、そこまで貫いてほしいという意見なのだろうが、私は情状酌量の余地はあると思う。「世界は変えられない」という言葉が実感のこもった、自分の無力さを思い知った風に見えた。結局ネットは怖いという話になりそうだ。

私がスポーツに期待しないというところに行き着くのだろうか。感動を届けると言われてもぴんとこないのである。だから「できないじゃなくて、やれる方法を考えよう」と言われても、選手は大変だなあくらいにしか思わなかった。エゴが見え隠れしても、スポーツ選手の人間性に期待する方が間違っているし、なんなら人間くさくて良いとすら思える。そこで、何人死のうが俺の人生のために開催、という主張は臭すぎるのである。

ミュージシャンが政治的発言をしてがっかり、という場面があるが、やはり私たちはそれを教訓ととらえ、あくまで感想は表層のみにして、中身やバックグラウンドと区別する訓練をすべきである。選手を応援する気持ちはなくても、応援するパッケージのチョコレートを買わなくてはいけない

昼休みも本を読んでいる

前々日に本を読むようにしていると書いたが、昼休みも読むようにしている。事務所で休憩をとるとすぐ近くで仕事の話をする人がいるが流されないよう努力している。休憩は交代制なので仕事の話は仕方ない部分もある。私は仕事とか関係なく人と話したくなくて本を読んでいるぶぶんもあった。後から女性社員に「話しかけられたくなくて本を読むようにしたのですか?」と問われ「そうです」と答えた。いちばんはスマホを見るのがつらいからなのだが。


いっそスマホ自体を解約したくなるが乗り換え案内がないと電車に乗るときに不便である。ユーチューブだってたまには見たくもなるだろう。ユーチューブとかはタブレットをそれ用に買ってもいいかもしれない。なんせ私の部屋にはテレビもないのだから。私の周囲には何故かテレビを持て余している人がよくいて、定期的にテレビを譲ろうかと言われるが全部断っている。見たいのはせいぜいEテレの「シャキーン」くらいだが今は放送時間は起きていない。連ドラを大真面目に見るのもいいかもしれない。


この前金曜ロードショーでスタンドバイミーがやっていて子供と一緒に見た。子供と一緒に映画を見るのは大変楽しい。スタンドバイミーは以前見たときとまったく印象が変わらなかった。相変わらず誰が誰の兄なのかわかりづらく、結局死体の人はどういう経緯で死体になったのかイマイチわからなかった。ポストをバットで殴り倒すシーンは笑ってしまった。ゲロを吐きまくるシーンが楽しみすぎていつもその後の展開を忘れてしまう。