意味をあたえる

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離れても、引き寄せられ続ける

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を読んで、考えたことを書く。

前にも書いたけれど、高校の時に初めて村上春樹を読んで、それがほぼ初めて読んだ長編小説で、今から考えれば、それが自分が初めて文学に触れた時だと言える。文学、というものが極めて抽象的で、人によってその定義は異なるものだから「文学に触れた」というのは、本当に中指の先で、ほんの一瞬かすった、という感じで、そこから「文学とはなにか、そして芸術とは?」というテーマの自問自答の長い旅が始まった気がする。(と言っても20代は気が多くて、ほとんどサボってた)
だから、村上春樹自体も小説か否か、と言われ続けていたことを、作品を読んでいくことで知ったし、記事の中でもかなり攻撃的に批判されていて、いまだにこういう感じなんだな、と最初は率直に驚いた。
村上春樹を読んでいた当時は、村上春樹がこんなにも読まれている作家だとは知らなくて、知っていたら自分の性格からして、敬遠していたと思う。(初めて読んだ時は、図書館で「ねじまき鳥クロニクル」という分厚い背表紙が目に止まり、タイトルにひかれた。その時はおそらく、同じマ行の村上龍のコーナーを見ていたのだ。マ行は文芸書コーナーの何列かある本棚の1番専門書寄りにあり、なおかつ窓際の1番端であり、その配置は今でも変わっていない)「趣味は読書です。よく読むのは村上春樹です」なんて言うのは、好きな寿司ネタはマグロです、みたいな馬鹿っぽいところがあるので、ある時期からあまりその名を口にしないようにしてきたが、しかし、最近ではアンチ村上春樹はそれなりの数がいるとわかってきたので、アンチ・アンチ村上春樹こそ、真の少数派ではないかと思うので、素直に「村上春樹好きだよ」と言ってもいい気がする。
それで、記事のことに戻るが、最初はかなり考えが偏っているし、視野も狭く、自分の芸術観、文学観とは相容れないと思ったが、読んでいくと、解説者のような人が現れて、その人が誠実な人で、伊東氏の著書もツイートしながら速読し、結果的に伊東氏をフォローしている。著書の内容とか見ると、確かに村上春樹が反倫理的と言われても仕方ないのかもしれないと思えてくる。読んでないから断定できないが。そして最後まで読んでから、改めて最初に戻ると、伊東氏が結構慎重に言葉を選んでいることに気づく。村上春樹を攻撃しているようで、実は違うというか、違くはないのだが、見えないところに座布団被せて、その上から棒でバシバシ叩くイメージ(このイメージは昔観た家なき子から拝借した。菅井きん安達祐実をバシバシ叩く。しかしそれは演出なので、実際は布団を叩いているのである)。そしてエリート至上主義を主張しながら、自分は学校教育を受けていない、というのがミソだ。ただしこれは個人レッスンの方が学校よりも上だ、と取られるリスクもある。だから、私は最終的に伊東氏にはそれほど悪いイメージは持たず、著書を読みたいとも思った。さらにヴァージニア・ウルフとかフォークナーとか、もっと色々読んだ方がいいと思った。なぜなら私もエリート至上主義だからである。一方で最後まで食い下がった弁護士の主張も、全てが屁理屈、詭弁であるとも思えない。記事の中でなんども出てきた「貧乏人だから犯罪者になる、と犯罪者は貧乏だった、は違う」は確かにそうだけど、どこか引っかかる部分がある。そこから貧乏人を黒人に入れ替えるのも、どうかと思った。
さて、最後に私が主張したいのは、「村上春樹ノーベル賞を取りたがっているか」という部分である。私は「1Q84」以降の著書を読んでないから近年の心境は知らないが、私がエッセイ等を読んでいたころは、ノーベル賞を欲しがっている素振りはなかったし、はっきりとそう言及もしていたし、そもそも賞はおろか、あまり売れてしまうことを歓迎していないところがあった。もちろんそういうポーズを示しただけかもしれないが。
賞よりも自分の書きたいことを書きたい、というスタンスであれば(私の中の村上春樹像はそうである)ノーベル賞に相応しい・相応しくない、という議論に落とし込まれてしまうのは、とても気の毒なことに思える。
私は率直に、村上春樹は自身の想定を超えて売れすぎてしまったために、商業作家に見なされ、そのためにこうむった実害とギャップに、苦しめられてきた作家だと思う。しかし、そのことが村上春樹の小説を、文学たらしめている大きなファクターなのではないか、とも思う。
文学=芸術なのかは、今の私にはわからない。