意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

思考の残りかす

このブログを書き始めてから、ブログに何を書こうか考えるようになった。それは朝が多い。私は朝の車の中で1番頭が働くことを発見した。考えよう考えようと考えることで頭を満たすと、かえって頭は動かず、何か単調な作業をした方がうまくいくようだ。車の運転を単調な作業と言ってしまうのは、危険だが、毎日会社に行くことは単調だ。働くことは単調だ。そして、最近では橋を渡り切った下り坂の途中にある保育園をよく見落とす。

しかしその時に書こうと思ったことを、実際に書くことに躊躇する。また、忘れてしまうこともよくあるし、忘れてしまうともったいねーなと思う。そんな時はいいアイディアなら、また思い出すことができるだろうし、忘れたままならその程度だよ、と思って自分を慰める。しかし、最近では忘れた方が幸せなんじゃないかと思う。

以前書いたかもしれないし、書かなかったかもしれないが、書こうと思ったことを書くのは困難だ、と書いた。確か村上春樹について書いた時だ。ちなみに村上春樹を批判している人の著書は数日前にAmazonから届き、昨日から読んだ。オウム真理教についてで、私は自分の大学時代を思い出した。私は大学の図書館で村上春樹アンダーグラウンドを読み、とても面白いと思ってそのあと購入した。当時はAmazonなどないから、何処かの本屋で購入したんだろうが、どこの本屋だろうと思い出そうとして、大学の帰り道にある本屋を思い出し、おそらくこの本屋で購入したわけではないが、その本屋は道の上にテントが張られた商店街の一角にあり、それほど大きな書店ではなく、店員の女性がとてもへりくだった態度で接客するのが印象的だった。当時、私はノートに文章を書いていて、たしかこの女性店員のことを書いたと記憶する。悪い印象で書いたのか、良い印象で書いたのかは覚えていない。印象というものすらなかったのかもしれない。

その記事は、押入れのなかの箱の中のビニール袋の中のノートの束のどこかに書かれているはずである。私はこの文章を書きながら、どんどん当時のことを思い出し、ノートの外観まで思い出せそうなところまできた。しかし、私が舞い上がって、押入れを開き、指先に埃をつけながらページをめくったところで、その記事はどこにも見つけられないのである。

私は今日書こうと思ったことの中に、数日前に読んだブログの記事について考えたことを書くというのがあったが、まずページの先頭に、そのブログのURLをコピペして、中身を引用したりしたら、いかにも今時のブログになって華やかになるだろうと一瞬心が踊ったが、やはりその記事を見つけることができなかった。別にそれが超常現象的ななにかであるとか、私の記憶の懐疑だとか、そういう風には思わない。