意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

W杯と父

私は子供の頃から父親の仕事について、よく知らない。いや、知っているのだが、それは例えば大工さんとか、サラリーマン、とかわかりやすいイメージではなかったので、子供の頃父の仕事について母親に尋ねると「学校の先生」と適当に答えられた。父は教師などではなかった。

どうやら父はここ数年で激動の時を過ごしたようである。とある組織のそれなりに上の方まで上り詰めた父であったが、そこで権力闘争で敗れ関連会社に出向させられたらしい。そこで不遇の扱いを受けながら、今年の春一大決心をし、知り合いのコネで転職をしたようだ。もう60歳は過ぎているが、なお盛んなようである。
そこで初めての電車通勤になったらしいが、どうすれば朝のラッシュ時に座ることができるか、などを無邪気に語っていた。父いわく、日本の電車は思ったよりも時間にルーズで困ったものらしい。
そんな私もかつての電車通勤の経験(わずか1年足らずであるが)を生かして、父へ「電車で座りたかったら学生の前に立つといいよ、学生はすぐ降りるから」とアドバイスするのだから、私の頭の中も相当おめでたい。
なぜおめでたいのかと言えば、父は今でもある程度の権力は保有しているが、私は権力とはまるで無縁の人生であり、私は酔った頭の論理で、持論を展開しながら得意げになり、その姿はかなり滑稽である。しかし、私たちは親子であるから、そういうことも大目に見て欲しい。私もやはり無邪気だ。
そして私たちが熱く語り合う内容(部署内の残業をどうやって0にするか、について)を母は台所から満足げに眺めているのである。というのはある種の私の願望に過ぎない。