意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

今週のお題「書くこと」について

書くことについて書くというのは、なんだか自己言及というか、パラドックスというか、数字を0で割るとか、そういう雰囲気を感じる。だから、私はそれっぽい比喩を考えようとしたが、どれも的外れであった。私は比喩を考えるのがすごく苦手なのだ。


例をあげると「嘘つきが嘘をつく」「裁判官が自分を裁く」「絵かきが絵筆を持った自分の手を書く」などである。私は、絵かきについては、割と言い表せているんじゃないかと、文字にしたら思った。しかし長ったらしいから、これもボツだ。


私は2、3日前に自分の文章が疑わしいと書いたが、もう忘れてしまったが、タイトルから判断するに、こちらの方が、今回のテーマにふさわしい気がする。だから今私が書いていることは、もしかしたら重複しているかもしれないし、だとしたらズルをしていることになる。読み返せばいいとお思いの方もおられるかもしれないが、私は自分の書いたものは極力読み返したくないのである。


私は書きながらだんだんと思い出してきたが、そういえば私は小学生のころまでは作文がほとんど書けず、原稿用紙一枚書くのにもしんどくて仕方がなく、原稿用紙の折り返しの柱の部分をよく4Bの鉛筆で塗りつぶした。それは2Bのこともあれば、HBのときもあったに違いない。そうしたら親が、「作文の書き方」という本を買ってきてくれたが、もちろん読まなかったことはそのとき書いた。だが私はその本の外装について描写するのを忘れてしまい、後から悔いたのだ。


だからこの場で描写させてもらうと、その本は副題として「小学3年生向け」と書いてあって、私は小学3年生だった。母は多分、生協でその本を注文したのだ。そして表紙には頭を抱えた短髪の男の子の絵が、ややコミカルに描かれていた。本の趣旨から判断すれば、この男の子は、当然ながら作文が書けなくて頭を抱えており、それは

「今本を手にとっている君のことだよ」

というメッセージを含んでいるのである。しかし私はこの絵の男の子ほど、短髪ではなかった。私は決して長髪ではなかったが、男にしては髪が長い方だったのである。私はいつもすぐ裏の床屋で、同級生のおじいちゃんに髪を切ってもらっていたが、私は一度もその髪型が気に入ることはなかった。


話をまとめると、もしその高齢の床屋の腕が良く、私が男らしい短髪で日々を過ごしていれば、「作文の書き方」の男の子が自分そっくりで容易に感情移入することができ、私はその本を最後まで読むことができた、という趣旨である。