意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自己矛盾

先日私の書いた記事について言及された記事があり、私はその中で「嘘を許さない」という立場になっていて、私はそういうつもりで書いたわけではなかったが、でもその人がそう書くのならそうだろうな、と思った。私の方も嘘と一口言っても色々あるから、別についてもいい嘘もあるだろうと思っているつもりだが、腹の底では嘘は例外なく許せない、と思っているのかもしれない。私は実際に書いた文字ならともかく、そのときの気持ちとか心構えとか、そういうのは一切あてにはならないと考えているからだ。

そう思ったところで、保坂和志小島信夫と初めて会ったときのエピソードを思い出し、その中で保坂和志
「文章とは決して自分の意思でどうこうできるものではありませんよね?」
小島信夫に確認すると小島信夫は、
「そんなことを誰の前でも軽々しく言ったらいけない。みんな小説を自分一人の力で書いていると思っているんだから」
と答えるのである。

それで私はその箇所をまた読みたくなったので、本棚にそれが書かれていそうな本を探したが、なかなか見つからず、あれは図書館の本で読んだのかもしれないと思ったら、見つかった。そうしたら保坂和志の言葉は違っていて、正確には
「小島先生の小説が小説たりえているのは、先生が小説に奉仕しているからなんだと思う」
であり、私の記憶違いというか、拡大解釈だった。ちなみに小島信夫の言葉も違っていたが、いちいち直すのも面倒なので、こちらは最初からもとの活字を見ながら書いたので、合っている。

私の一番マズイところは、小説も文章もみんな一緒くたにしているところであり、小説は文章の1カテゴリであるから、自分の意思では書けないどうこうは、小説だけの話であり、文章全般には言えない。しかし、私は文を書く時点で表現であるから、その他全てに当てはまるのではないか、と考えている。私たちが文章を書くときに自分が思い描くように書けなかったり、また読み手が書き手が想像もしなかったようなことを文から読み取ったり、というのは、私たちの意思とは関係ない力が働いているからではないか、と思っている。

白状してしまえば、私はここでは小説を書くつもりで書いている。もっと言えば、「小説らしさ」から脱脚したくて書いていてる。

小説修業 (中公文庫)

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