意味をあたえる

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図書館/本を読む理由

図書館にさっき行ってきたが、以前はあまり行かない時期も一時期あった。今は月に2回3回行っている。私の行っている図書館とは、小学6年のときにリニューアルオープンし、私はそれまで自分の住む町に図書館があるとは知らず、釣り堀の隣にある図書館だった。この釣堀は最近になって埋め立てられて図書館の第3駐車場となった。しかしこの釣堀については以前書いた気がする。今までは地下にある第1駐車場がいっぱいのときは、少し離れた第2駐車場に停め、そこは砂利で夏でも冬でもシルバーサービスから派遣された年寄りが駐車場の整理をしていた。私は暑い夏なんかには、死んでしまうんじゃないかと心配になった。こんな、真夏に本を読むインテリぶったやつの車を線内に停めさせるために命を落とすなんて気の毒なので、私は少し恐縮した気で駐車場を後にした。その駐車場から図書館へ行く場合は外の階段を昇ってから入り口に入るのだが、階段の手前の柱の影で、あるとき若い女が泣きながら電話をしていたのを見かけたことがある。そのときはネモちゃんと来ていて街路樹が植えられていて日陰になっていたので比較的涼しく、また木の表面のそこらじゅうに蝉のぬけ殻がくっついていて、ネモちゃんはそれに夢中になっていた。私は少し高いところにある蝉のぬけ殼をジャンプして取りながら、ちらちらと柱の影の女を見た。柱、とは図書館の柱でとても太く、赤いレンガが積まれた外装をしていた。
「……だよね? ……だよね?」
と、私は細かい話は聞こえなかったが、そんな感じの語尾を繰り返していた。私は初めから女は男に振られたと思い込んでいたから、きっと、色んな思い出のこととか、あとは男が以前述べた言葉についての検証とか、そういうことを言っているんだろうなと想像した。しかし、本を借りにきた、あるいは返しにきたところを電話で振られるなんて気の毒である。図書館の先には建築設計事務所と、喫茶店があった。建築設計事務所は設計をやっているだけあって、ベランダの柵の形が、オシャレな感じだった。

話を戻すと私が今日やってきたのは夕方の5時15分くらいで、私の車の時計は6分進んでいるので、デジタルは
「5:20」
と表示していた。つまりやってきたのは5時14分だった。予想に反して第1駐車場が空いていたので、この駐車場は友人が
「市内でいちばん停めるのがむずかしい」
と言っていた駐車場で、私もそれには大きく同意する部分があり、大変車の間隔が狭く、私も何度かこすったことがある。こすらなくても、何度も切り返すのが面倒になって、停めるのを諦めたこともある。しかし今日は空いていたから、すんなり停めることができた。私は、
「ひょっとしたら今日は5時で閉館だったのかもしれない」
と心配になった。すでに5時は過ぎているから車が何台か停まっているのはおかしいが、図書館は市の施設だから夜中でも駐車場を閉鎖しないのかもしれない。そんなことを考えているといきなりチャイムが鳴りだし、やはりもう今日はおしまいなのかもしれないと思った。こんな中途半端なタイミングで鳴らすのはおかしいが、こうやってあれこれ考えるなら、とっとと車を出してしまった方が気楽である。しかし、私の記憶によればかつては土日祝は5時までだったが、最近は7時だったような気がし、実際行ってみると7時までだった。

だから館内に足を踏み入れると、昼2時頃の風景となんら変わらず、子供もいて、子供の泣き声も聞こえた。カウンターに行って借りていた本を返し、カウンターにいるのはいずれも中年の女性ばかりで、この後7時まで仕事をするのなら、この人たちの中には子供がいる人もいるから、子供を帰りを待っている人もいるんだろうなあと思った。私は子供の頃は午後6時には夕ご飯を食べていて、それは父が仕事で遅くても関係なく必ず6時に食べ、だから図書館の人の子供はもし、お母さんが帰るまでご飯は食べれないとかだったら、とてもかわいそうだと思う。

私はその後検索端末で本を検索し、しかしこの端末の結果は大変大雑把で、なかなか目的の本は見つからず、よく考えたら私の方も悪く、私は検索しておいて、本の番号とかを覚えようとしないのだ。私は私で、誰それの本をなんとなく、みたいなゆるい検索しかしないので、番号というのは1冊の本しか指さないから、覚えると言ってもどの本の番号を覚えればいいのか、わからなくなってしまうのである。そして、たくさんの本棚の本の背表紙を確認して行くうちに、どちらがタイトルで著者名なのかわからなくなってしまい、今見ていた段が、果たしてちゃんと確認していたのか不安になってしまい、何度も同じところを見てしまうのである。

やがて探していた本は見つけたが、これは次回以降借りようと思い、一度見つければ次に見つけるのは比較的たやすいから、それでいいのである。

それから保坂和志の小説の本を読み、これは小説の自由という本の3冊目で、私はこれはまだ読んでいなくて、必ず読もうと思っているが、なかなかタイミングが来ない。私はだいたいこの本に関しては1度読んだくらいではわからないから、買って手元に置いておきたいと思いながら、しかし、その買う順序としては、すでに読んでいる1冊目から揃えて行くべきか、まずまだ読んでいない3冊目を買うかで悩み、そのままストップしているのである。私はその3冊目をちらりと見たら、
「多くの人が小説がなにかとは考えていないし、それは小説家も同じである。「考えている」と言っても考えていない場合が多い」という意味の文章があり、私は例によって見ながら書いているわけではないから、きっと違う趣旨になるのだろうが、考える、というのは、「考えてます」という程度では考えていることにはならないんだと思った。