意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

表現は取捨選択、欠損

図書館へ行った飯倉は、とくに借りる本もなくぶらぶらとして、それはもうじゅうぶんに、読む本が手元にあったから、これ以上読む本を増やしても仕方ないと考えたからだ。今読んでいるのが、中勘助銀の匙」読みかけなのがチェーホフの「曠野」、小泉八雲集、手をつけていないのが、小島信夫「うるわしき日々」である。「うるわしき日々」にかんしては「抱擁家族」の続編らしいが、飯倉はまだ読んでおらず、しかしこれは順番など特に気にすべに作家ではないと、飯倉は考えていた。

図書館の椅子のうえで、最初のブログを書き終えた飯倉は、ふと山下清の日記を読みたいと思い、場合によっては借りてもいいと思っていた。以前借りて読んだら、とても素晴らしい文章だと思ったのである。しかし、沢山のページがあるから、やはり借りてしまうとプレッシャーに感じてしまうので、ぱらぱらとめくってから、戻そうと思っていた。今回は放浪地図というものを手に取った。せっかく今、手元にもあるから、どこか引用してみよう。

ところが、飯倉がいくらかページをめくってみると、これはどちらかと言えば絵のほうがメインらしく、絵ばかりで文章のほうはところどころ抜き出してあるだけで気に食わないので、飯倉は引用を諦めました。

話をすっ飛ばしたが、飯倉が図書館で山下清をぱらぱらやっていると、ふと、「カラバッジョ」という言葉が目に入り、それはイタリアの画家で、飯倉がいたのは美術のコーナーだったから、この本を発見するのは奇遇でもなんでもなかった。

カラバッジョは先日聖書の絵についての本を読んだときに知った名で、
17世紀初頭のローマで、一世を風靡したバロック絵画の巨匠カラバッジョ。斬新な明暗法を駆使した写実的かつ幻想的な作品は常に賛否両論を巻き起こし、さらには生来の激しい気性から殺人を犯し、逃亡生活を余儀なくされる。(カラバッジョ巡礼/宮下規久朗)

という画家だ。ところで山下清も放浪の画家なので、どちらも移動しながら絵を書いていて、その共通を愉快に感じた飯倉は、結局2冊をカウンターで借りた。返却日は10月10日である。


ところで飯倉は今、公園にいて、その公園は芝生が多くて広く、そのうえにコンビニのビニールをひいて、この文章を綴っている。とても晴れていたので、外に出たくなったのだ。しかしひとりであるから、あまり不審に思われても嫌だから、最初は駐車場の車の中で満足しようと思っていたが、どういうわけか駐車場内には予想よりもずっと多くの車が停まっていて、それらは木陰の駐車場を埋めていて、日の当たるところは割と空いていた。やがて、それらの車は営業マンが昼食のために休憩して停めているということがわかり、この公園は県営だから、あまりうるさくないんだろうな、と飯倉は思った。無料だし。


そうなると、飯倉はだんだんとシートを倒して寝ている営業マンたちが鬱陶しくなり、営業マンと言っても、作業服や私服の人もいたが、窓を閉めて車を後にした。暑い日なので、どの車もエンジンはかけっぱなしだった。


その公園は飯倉自身が子供の頃に連れて来られたこともあるし、自分の子を連れてきたこともあったので、最近ではやってこなかったが、よく見知った施設であった。しかし、飯倉は最初、どこが芝生の場所なのか、まったくわからなかった。自分が来ない間に、配置が変わったのかもしれないと思った。地図を探そうと思った。すると小さな看板が目に止まりそこには、

「東京の公園でデング熱が発生しました。当公園では発生していませんが、蚊には刺されないようにしましょう」

とあって、それからしばらくして、飯倉は腰のあたりを蚊に刺されてしまうのである。


ところで、表題に少し触れるが、初めて写真が登場したときには、発明した人も含め、誰もそれが表現や芸術のひとつになると予想した人はいなかったのではないだろうか。写真は細部まで、全てを再現してしまうからである。しかし、やがて写真は切り取られた一部分を写すのみであることにみんな気づき、そのことに気づいた人の写真から、表現は始まったのだ。映画が登場したときは、割とみんな表現だということを知ってた気がする。ところで、カラバッジョ山下清も、「天才」と称されているが、より天才に見えてしまうのは、カラバッジョの方だろう。山下清のほうが、自分でも書けそうだから難しい。見る人を選んでしまうだろう。借りてきた本の中に、山下清の貼り絵は徐々に色が褪せてきているから、修復をしていますというページがあって、新旧の絵が縦に並んでいたが、修復前の絵のほうが、ほのぼのしていて好みだった。